なぜ、自己肯定感が必要なのか?
この問いへの説得力ある答えがなかなか難しくて、「あった方が良くない?(くらいしか言えず)」ずっと考えていたら、都会の大きな人の流れを見て、突然降りてきた。
大きな流れに逆らってでもも、自分で考えて判断して自分で行動が求められる場面で、自己肯定感があると力強く逆らう判断できることがその理由。
ムリに逆らう必要はないけども、特に自然災害で命に関わる一瞬の判断を求められたときに、自分の判断で命を落とすのと、誰かの判断に従って命を落とすのと納得感が違う。
一方で、人の判断に従って命を落としてもそれを受け入れられるというのも、他者否定ではなく他者肯定か必要で、他者肯定するにも自己肯定感が必要。自分の選択を肯定できるには、自己肯定感の土台が必要ということ。
自己肯定感の土台があると、自分が悪いときには自分が悪いと認めて意思表明できるし、自分が悪くないときにが自分は悪くないと意思表明できる。
日本のビジネスシーンでは、とにかく謝っとけみたいな「ごめんなさいのカツアゲ」が横行してるけど、お金を優先して自己肯定感を潰してしまうとても良くない場面だと思う。
謝るとそのときは楽だけど、後々嫌な思いでとしてずっと残ってしまう。部下や後輩だけではなく、子どもが謝りたくないときはちゃんと本人の意思を聴く必要がある。無理に謝らせることは自分の心の声に嘘をつくことを習慣化させてしまう。そんな大人が増えて到達した日本の現在地が、高度経済成長は成功しても自殺も多く幸福度の低い社会と言えると思う。
子どものころ、100人で遠足に行くとして、Aの道に自分以外の99人が行くとしたら、Bの道に進みたいと思っていた。
その理由は、99人に「Aの道はどうだった?」と聴ければ、99通りのAの道のイメージを聴くことができる。これは全盲の方が美術館で楽しんでいる光景と似ているかもしれない。
逆に自分がAの道に行った1人だったら、Bの道へ行った1人に聴くことしかできない。質問を工夫したり時間をかけてゆっくり聞ければ少しは多くの情報を得られるかもしれないけど、1人分の目以上の情報は出てこない。
AとBの分かれ道で、Bを選ぶのは勇気がいる。多数と別の道に行くのは1人だけそっち行くのはずるいとか、1人は危ないよとかネガティブなことも言われやすいし、みんなで行こうよとか楽しい誘惑もある。そっちの方が楽しそうだと思った時は行ったらいいけども、どうしてもBに行きたい時に1人でも行きたい時に自分の意思を表明してその選択をできるか?
その選択には、自己肯定する土台がいる。そういう経験は小さいころから習慣化する。あれ食べたい、これ食べたくない、あれが欲しい、あれはいらない。すべて意見を取り入れることができないとしても、意見を言う機会や、失敗するとわかっていてもやってみる機会があるだけでも、自己肯定感の根っこは育つんじゃないか?そんなことを考える。
自分で考えて、自分で判断して、自分で決めて行動する。その反対は、他人に考えてもらって、他人に判断してもらって、他人が決めたことで行動する。どっちが豊かな選択なのか?どっちが幸せな選択なのか?個人によって違うかもしれない。自己肯定感がないほうが幸せかも!という意見もあると思う。
選挙の投票率はスウェーデンは87%、日本は50%未満。それは自己肯定感を反映している数字にも見える。
自分の子どもは、どんな子どもに育ってほしい?育った子供たちに、どんな社会で暮らしてほしい?今の大人が次の世代の子どもたちにどんな社会を渡したい?
そういうことを考える根底に、自己肯定感があるんじゃないかなと、大都会の大きな人の流れを見て突然感じたのでした。
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