【コロナで脱資本主義】経済学をもっと学びたい人のための雑学
経済学をもっと学びたい人のための雑学
雑学1
「交換とは、異なる使用目的を持つ同価値の商品間においてのみ成立しうる経済行為である」は、実は嘘?
エピソード3で、のっけからみなさまを驚かせたであろう次のフレーズ。
交換とは、異なる使用目的を持つ同価値の商品間においてのみ成立しうる経済行為である
これを、経済学的に正確に言い換えると、実は次のようになる。
交換とは、異なる使用価値を持つ同じ交換価値の商品間においてのみ成立しうる経済行為である
まず、「使用目的」が「使用価値」に変わっているが、これは単に、経済学の世界では「使用目的」ではなく「使用価値」という用語を使うためである。「使用目的」は、「このほうが説明がわかりやすく、しっくりくるだろう」と私が考えた造語である。
次に、「価値」が「交換価値」に変わっているが、ここは少々ややこしい。順を追って説明しよう。
まず、「交換価値」というのは、簡単に言ってしまえば「価格」のことである。すなわち、前述の一文は、「同じ価格なら商品が交換できますよ」と言っているわけだ。まぁ、当然のことではある。
では、なぜ「価格」ではなく「交換価値」なんて表現を用いているのか。その理由は次のとおりだ。
「価格」というのは、商品が交換されるさいに基準となる数値・単位であり、その数値・単位が同じであれば、交換が成立する。では、その数値・単位とはなにか。お察しのとおり「通貨」である。
実際、「百」「円」(数値・単位)の鉛筆と「百」「円」(数値・単位)の消しゴムでは問題なく交換可能である。
しかし、「百二十」「円」の鉛筆と「百」「円」の消しゴムでは、数値が異なるために交換はできない。同様に、「百」「ドル」の鉛筆と「百」「円」の消しゴムでも交換は不可能だ。これは単位が異なっているためだ。
『資本論』を著したマルクスは、「通貨」について説明する前に、まず商品の交換のメカニズムを解明しようと試みている。したがって、前述の一文を掲示するときには、「通貨」の概念である「価格」という表現をまだ用いることができなかった。
もし、後の説明で明らかになる概念を先に用いてしまったら、循環技法に陥ってしまう。私なぞは、別に循環技法でいいじゃないかと思うのだが、それを嫌ったマルクスは、「価格」とまったく同じ意味を持つ「交換価値」という用語で説明を試みたという訳だ。
ただ、ここで重要なのは、マルクスは、「最終的には商品は価値に応じて交換されている」としながらも、『資本論』の冒頭では、あくまでも「価値」と「価格」は似て非なるモノで、「商品は価格(交換価値)に応じて交換される」と主張している点であろう。
ちなみに本連載では、マルクス同様に、「価値」と「価格」が似て非なるモノであることを明確にした上で、「最終的には商品は価値に応じて交換されている」という立場をとっている。
また、ここで混乱してはいけないのは、いかに「価値」と「価格」が「ほぼ同じモノ」であっても、それは経済行為の最終段階である「交換」から両者を見た場合である。
そして、経済行為の初期・中間段階である「生産」の過程で「労働時間」が生み出すのは、あくまでも商品の「価値」である。
「労働時間」が「価格」を生むことはない。「労働時間」が創造する「価値」、すなわち「生産費」が「価格」の変動幅や中心点を決定し、実際に「価格」は需給量や社会情勢などの影響を受けて変動を繰り返しながら、その「価格」を基に「交換」が成立している。
なお、エピソード4の繰り返しで恐縮だが、「価格」の上昇や下落は最終的には相殺されるので、突き詰めれば「交換の基準となっているのは価値」であるといえよう。
ちなみに、この点は当(とう)のマルクスでさえ、『資本論』より前の『経済学批判』を著していた頃は、明確にはその区別が付いていなかった。
雑学2
「頭脳肉体労働」と「労働の種類」の正式な表現は?
本書では、「労働の量」のことを「頭脳肉体労働」と表現しているが、正式には「抽象的人間労働」という。
また、「労働の質」のことを「労働の種類」と呼んでいるが、これは正式には「具体的有用労働」と呼ぶ。
本当に、学者の言葉は難しいですね。
トリビア3
マルクスのほうが一枚上手だった?
『国富論』で有名なアダム・スミスも、マルクス同様に「労働価値説」論者である。
彼は、「労働者の賃金は生産費の中に含まれている。であるならば、資本家が賃金として受け取るモノ。それが利潤である」と考えた上で、「生産費+利潤=価格」という結論を導いた。
ちなみに、この説を「自然価格」と呼ぶが、この考え方では、「いかにして利潤が発生しているのか」を解明しないことには自然価格の説明も成立しない。そして、結果的にアダム・スミスはここで行き詰まってしまった。
一方、同じ労働価値説論者のマルクスは、「利潤は資本家にとっての賃金」と考えたところまではアダム・スミスと同じだが、彼は「労働者の労働こそが利潤を生む」というメカニズムにたどり着いた結果、「労働者の剰余労働、すなわち、不払い労働こそが利潤の正体であり、その利潤が資本家の賃金となっている」という「剰余価値」の解明に成功した。
この勝負は、マルクスのほうが一枚上手だったようである。
トリビア4
学者は数式がお好き?
資本のうち、原材料費やその他諸経費などは「不変資本」と呼ばれ、ここから新たな価値が創造されることはない。
新たな価値を生み出しているのはあくまでも労働力、すなわち「可変資本」である。そして、この可変資本が「剰余価値」を生み出す。
経済学では、不変資本は「C」、可変資本は「V」、剰余価値は「M」と表し、結果として生産物の価値は「C+V+M」と表される。
元々はCとVしかないのに、そこに手品のようにMが出現する。これこそが資本主義のメカニズムであり、資本家が裕福な理由である。
蛇足だが、「労働力と労働は別モノである」ことはご理解いただけていると思うが、実は、マルクス自身、『賃労働と資本』の元となった論文では、まだ労働力と労働の違いを明確には区別できていなかった。
このことからも、「労働力と労働の違い」の発見がいかに歴史的な出来事であったかがうかがい知れる。
それにしても、アインシュタインの「E=mc2」ではないが、学者は本当に数式がお好きなようだ。「C+V+M」を見るたびにそう思うのは私だけだろうか。
ちなみに、Cは「Constant」、Vは「Variable」、Mはドイツ語で「Mehrwert」の頭文字である。
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