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エッセイ『鰻、停電、独りぼっち』

 土用の丑の日に職場が停電したカウンセラーのエッセイです。


 チャイムが鳴る。12時だ。誰よりも早く仕事を切り上げ、持参したおにぎりを頬張る。今日は土用の丑の日なので、鰻の入ったおにぎりを買ってきている。これが今日の楽しみだった。正直に白状すると、早くおにぎりを食べたくて昼休みの5分前には仕事は切り上げていた。あとは手帳とにらめっこ。軽い朝食しか摂っていないため、空腹が昼食の期待値を更に上げる。鰻のおにぎりは400円もするが、土用の丑の日だし……と自分で自分に言い訳して2つ買った。ついでに紅さけも1つ買った。おにぎり3つで千円。明らかな予算オーバー、でも土用の丑の日だし……。もちろん、紅さけから食べた。楽しみはあとに取っておくタイプだから。そうして漸く鰻のおにぎりを食べる。高級品だしじっくり味わって食べる。嘘だった。一瞬だった。待ちに待った昼食を終えるのに10分も要らなかった。

 私が昼食の片付けをしているとき、(他の職員達が昼食を摂り始めようとするとき、)外に弁当を買いに出ていた先輩達がびしょ濡れで帰ってきた。私の職場には窓がない。正確には事務所には窓がない。事務所を取り囲むように通路がありその外側には相談室が配置されているためである。窓のない部屋で面接などしても気持ちが暗くなるだけなので、相談室が外側に配置されるのは当然のことではあるが(地下に相談室がある施設でも、窓を設置しているのを見たことがある。その場合窓の部分には風景の絵が描かれている。それほどに閉塞感はカウンセリングの障害になりうる!)。そういう構造のため、事務所から外の様子はわからない。少なくとも11時台におこなっていた面接中は雨など降っていなかったはずだった。所謂ゲリラ豪雨。店に着くまでは降っていなかった雨が、店を出るときには横殴りだったそうだ。私はうなぎに、ひいては土用の丑の日を創った平賀源内にまでも、感謝した。鰻を持参しなければ、間違いなく私もゲリラ豪雨の餌食になっていただろう。高級な物を食べた上に雨を逃れるとは、今日はどうやらついている。こんな日は仕事を切り上げてギャンブルに身を投じたいものだ、などと考えていたその刹那、轟音!その空間にいた50人ほどの職員の時間が一斉に止まる。一瞬の静寂、遅れて雷の音だと気付く。窓がなければ雨も稲光もない、音だけが事務所の中までやってきた。時が再び動き出し、喧騒に包まれる。各々外の様子を見に相談室へ散る。凄まじい雷雨だった、らしい。私は雷がなってもわざわざ見に行くのが億劫だったのでデスクから動いていなかった。なんならこういうとき騒ぐ人々を見下しているフシがある。あれだけの音量の雷、ずぶ濡れの先輩、これだけで外の様子など十二分に想像がつく。大人になって雷などで浮かれやがってと思っていると、一際激しい轟音が。響くというよりは劈(つんざ)くような音だった。近くに落ちたのだろう。さすがに一瞬身が強張る。こんな様子じゃ午後の面接はキャンセルだろう。こんな嵐の中相談に来られる人はそもそも元気なのだから(どうしても相談したいくらい困っているから来るという人もいるけども)。しかし、30分とせずに雨は上がった、らしい。もちろん外の様子は人伝てに聞いているだけで一歩も動いていない。昼休みが終わって待合室を覗くとクライアントはちゃんと来ていた。偉すぎる。何もなかったかのように午後の業務が始まっていく、はずだった。

 面接を1つ終えた14時、昼の雷雨が嘘のように空は明るくなって、気温が上がり陽も差そうかというときに、それは突然起こった。バチッ!という音とともに目の前が真っ暗になる。すぐに理解する、停電だ。窓がないので14時だというのに異様に暗い。事務所に2つだけある豆電球のような非常灯が、2箇所だけスポットライトのように差して、書類で散らかったデスクだけが浮かび上がっていた。再びの喧騒。各々がスマホで停電について調べ始める。どうやら停電しているのは私の職場が位置する区一帯だけで発生しているようだった。原因は不明とあったが恐らく先程の落雷だろう。上司は14時からの面接をどうするか検討していた。相談室には幸い窓があるので明るさは確保できていた。問題は暑さだ。この暑さで冷房がつかないとなると正直面接に集中できない。子どもの面接ならなおさらである。窓を開けて凌ぐしかない、それが難しい人はスケジュールを組み直そう、と方針が決まる。

 ここでもう1つ問題が。窓を開けると、けたたましいホイッスルの音が飛び込んできた。施設の目の前の交差点で、警察官が交通整備を行っていたのだ。信号も停電で消灯している、当然の措置。だが迅速な対応に感謝することはなかった。窓を開けて面接するとしたらこの音は邪魔だな、という利己的な感想だけが頭にあった。カウンセラーとしての本音だ。警察官が責務を全うするようにこちらも目の前に迫る面接を全うしなければならない。相談の枠組みを守るためにも基本的には面接は行わず、強く希望する人のみ対応しようという方針に変わる。だが、そもそもクライアントは来るのだろうか?こんな道路状況では来ることを諦める人も多いはずだ。結局クライアントは普通に来た。偉すぎる、危ないから来なくていいのに、と思ったがどうやらそうではなかった。なんと未だに停電しているのは僅か50世帯程で、信号が停電しているのはうちの職場の目の前の交差点だけだったのだ。残りは早々に復旧していたのである。警察官の迅速な対応は、対応箇所が絞られていたからだったのだろう。クライアントたちも相談に来た建物がやたら暗いので困惑していた。事情を説明し、希望者とカウンセラーが、交差点に面していない側の相談室に吸い込まれていった。

 私は結局14時台は面接に入らずに済んだのだが、16時にもう1件面接の予約を控えていた。しかし、この調子ならすぐに復旧するだろうと、暗い事務所で風神雷神の描かれたお気に入りの扇子を仰ぎながら、スマホで情報収集を続けた。復旧予定時刻が発表されていたがそこには16:10と表記されていた。少なくとも2時間はこのままらしい。既に冷房の余韻は消失し、じんわり汗が浮かび上がる状況。帰らせてくれと上司に言いたかったがその勇気がないので、事務所に残っている同僚と「もう今日はいいんじゃない?暑いしさぁ」と(上司に聞こえるように!)冗談っぽく言い合っていた。その甲斐あってなのかはわからないが上司が、クライアントに事情を電話して予定を組み直し、面接がなくなった人から帰っていいとお触れを出してくれた。有休も消費しなくていいという最高の待遇だった。職場にある電話で唯一回線が生きている電話(恐らく非常用に別の回線やら電気やらで動いている)の横にはカウンセラー達の列ができていた。真面目な先輩も一生懸命に電話している様子を見て、みんな当然のように帰りたいのだなと思い、少し嬉しくなった。電話が済んだ人から帰り支度を始める。真面目な先輩は「かき氷でも食べに行く?」とさらなるギャップを感じさせる会話を繰り広げていた。そんな楽しげな会話を横目に、自分の電話の番になる。生きている電話はスポットライトから外れた事務所の隅にあり、後輩がスマホのライトで手元を照らしてくれている中で番号を押す。いつもと違うコール音、これも非常用の回線だからだろうか。途中からいつものコール音に切り替わる。やや音がザラついている。非常時はこうなるのか、と考えていたが、いつまでも電話が繋がらない。結局自分のクライアントは電話に出ることはなかった。10人以上いたカウンセラーで、面接キャンセルの連絡が通じなかったのは1人だけだった。というか自分だけだった。みんなが帰り始める。口では「ごめんねぇ」と言っているが、お前たちがかき氷の話をしていたことを知っているぞ、という恨めしい気持ちだけがあった。事務所に残ったのは上司数人、カウンセラーは自分一人。連絡がつかない以上はクライアントが来るかもしれないので待つしかない。人が減って、暗い事務所がより一層暗く感じた。既に外気と大差ない気温になった事務所で、パソコンも使えず、暗いので書類を手書きすることもままならず、ただ汗をかくだけの男がそこにいた。いつの間にか復旧予定時刻は16:40に延長されていた。


とてもありがとうございます◎◎