【無料で読める】キッチンカーで聞いた声に対して動いた話と、今振り返ったときに思う痛みと課題
前回はこのような記事を書きました。今回の話はこの続きです。
はじめたことで聞けた声、見えた課題
前回、キッチンカーを開いて営業したことで、以下のような声を聞くことができた、という話をした。
小高にこの辺では飲めないような美味しいコーヒーが飲める場所があって嬉しいという声
自分たちもなにかしたいと思うけど何をしたらいいか・・・という声
買い物できる場所がほしいという声
なんか食うものないか、という声
私たちは、こうした声の一つ一つに対して、やれることをやってみようと考えた。
参画できる間口をつくる
まずは、「自分は何をしたらいいか・・・」という声が多かったことに対し、「どれだけ小さくてもいいから地域になにかしたぞ」と思える間口をつくろうと考えた。
何をしようと考えたときに前回も触れた学校再開に向けての「安全面にたいする懸念」をなんとか出来ないかと考えた。具体的な内容を見ると小高の住民が少なく、通学路は暗くて安全性に不安があるということを理由に上げる人が多いようだった。逆にいうと、通学路を明るくすることができれば解決するのではないかとも思っていた。
そこで私たちがはじめたのが以下のようなキャンペーンだった。
コーヒー+課金でソーラーライトをまちに増やす
当時コーヒーを300円で売っていた私たちは、それを500円払ってくれれば通学路にソーラーライトを1本増やします、というキャンペーンを実施した。
限定60本の予定だったが、賛同者があっというまに増え、1か月ちょっとで150本のソーラーライトを確保することができた。もともと1箇所の予定だったのを急遽追加し、2箇所の通りに設置することになった。
なにかしたいと言ってもいきなり時間を使ってなにかをはじめるというわけにはいかない人がほとんどだと思うので、コーヒーを飲みに来たついでにまちに対して小さなアクションができる、という仕掛けを考えた。
なお、これらの着想にはコミュニティ・オーガナイジングのリーダーシップの考え方が大いに参考になったので是非皆さんも参考にしてほしい。
選ぶ楽しみをつくる
スーパーは無理でも定期的な青空市なら開けるのでは
前回も紹介したが、この話を聞いて私はめっちゃなるほどなぁ・・・と思った。なんとかしてあげたいと思うが、当時ようやく1500人くらいだったので小高に住民が満足するようなスーパーをつくれるようになることはなかなか難しいだろうとも思っていた。
でもよくよく考えたらみんな毎日スーパーに行くわけじゃないし(高齢者はなおのこと)、月に2-3回とかあおぞら市みたいなので色々販売されている日があればそれでいいのでは?と思った。毎日やっている利便性はないけれども、逆に言うとそんなのは曜日を決めて覚えてもらえればいいので、そういうまちの形をつくるのもありじゃないかと思えた。
地元の野菜+京都の野菜と富山の山菜
そんなわけで、出品物の選定を始めた。テーマは「選ぶ楽しみ」。このあたりではなかなか手に入らないだろう京都の野菜と、当時の南相馬市では放射線量が検出されてしまうためほとんど食べることができなかった山菜を富山県の南砺市から仕入れて販売することになった。それ以外にも地域で頑張っている農家さんの農産物や、私たちも賑やかしで本格的なピッツアの提供を行った。
地域に必要なモノを提供できた手応え
OMSBオープンから約半年の2017年の5月に実施。新聞社などもとりあげていただき、当日もメディアの方が様子を見に来てくれた。
開店してみたら、特に山菜の売れ行きがすごかった。いろいろなものを10パックずつくらいあったと思うが、なんだったら一人で全部買っていこうという人もいた。さすがにもう少し行き渡らないとまずいので1人1種類1パックだけにしてもらったが、それでも1時間以内にすべて売り切れてしまった。(並べるそばから持っていかれるスピード販売だったので山菜の写真が残っていない。)
目算で250名くらいの方が来場してくれ、しっかり地域の人がほしいと思ってもらえるものを提供できた手応えを感じることができた。
やはり地域に顔の効く福島さんの声掛けで10人以上のスタッフがあつまり、まぁまぁの規模になったのにもかかわらず無事催行できた。当時はみなさんありがとうございました。
ちなみにこの青空市は2回目もやったが、私たちのチームのライフスタイルの変化などから人手が足りず広報も不足し、大ゴケに大ゴケした(仕入れだけで5万以上の赤字を出した)のでその後は開催していない。
が、やっぱりこのときやっていたことは意味があったなと思い直し、2024年現在「小高ゆうやけ市」という形で隔月で再開しはじめている。
圏内でもっともコーヒーの美味しいお店をつくる
キッチンカーオープンから1年半後、2018年6月に店舗をオープンすることになる。
この間に相当な紆余曲折と迷走期間とトラブルがありメンタルがやられそうなったことはちょっとまた別の回で話そうと思う。
コーヒー300円は安すぎてしんどい
キッチンカーオープンから半年くらいは連日30-40人くらいの人が来客してくれていたが、半年もすぎると徐々に人の波は落ち着き、10-20人程度の来客が続いていた。1日空き地にいて300円のコーヒーを20杯だしたところでたった6000円。原価を除くと4000円程度。他のメンバーのライフスタイルの変化もあり、両土日とも私1人が出続ける、というようなことも続いておりちょっとしんどいなと感じていた。私も社会に影響を生み出すこともできない無力感も感じるようになった。なにか対策を打つ必要があった。
店舗にできる物件の出会い
そんな中、私の仮設住宅の目的外使用(被災者じゃなくても仮設に住めるしくみ。私の移住当時は不動産屋に言っても空き物件ゼロという状態で賃貸物件は100人待ちとかになっていた)の期間が終了して住居を探していたのだが、ちょうど小高に貸してくれる方が見つかった。しかも駅前の角地の一等地。店舗として利用することも含めて了承していただいたので、こちらの物件をお借りし、住まいと店舗としての活用がスタートした。
この物件もほとんどの工事をDIYで行った。費用はキッチンカー時代に売り上げた約120万円が原資。60万くらいが工事の材料費、30万くらいが水道電気の設備工事費、30万くらいが機材費といった内訳。
ワークライフバランス、ワークワークバランス
当時の私は平日は本業のITの仕事、土日はキッチンカーで休みがあまりとれず、しかもITの仕事の方は大きな失敗をして八方塞がりになっていてちょっと心身ともに限界も感じていた。
とはいえ、なんとかこのOMSBの活動は続けたい、という気持ちもあった。店舗化し、平日2日+土曜日の営業にすることで、営業日を増やしつつ日曜日はなるべく休めるようにし、平日はそんなに人が来ないので来ない間は自分の仕事を座りながら行っておけば、この活動を続けながら自分の本来の仕事もできると考えたのだ。ワークライフバランスと、ワークワークバランスをとった。
花岡さんは杉並に帰ってしまい、福島さんは子どもが生まれて手が離せない。蒔田くんも忙しい部署に周り時々くらいしか手伝えない。活動しては1歩下がったかもしれないが、やめないことが大事だともがくことにした。
1杯500円。その代わり近辺で一番美味しいコーヒーを提供する。
そして、店舗にするときにはコーヒーを500円にしたいと話した。自分たちのモチベーションの面でもだが、徐々に地域の関心がうしなわれている現状において「高くても遠くからわざわざ来たい」と思えるものを提供できないとこの状況は変えられない、と感じていた。
なお、別に500円が高いとも思えないが、オープン当時は「え、500円もするの?高すぎ・・・」と週に1回は文句を言われるくらいの相場感だったことは伝えておきたい。
世界チャンピオン「粕谷哲」に相談
そんなわけで、当時アジア人初のバリスタ世界チャンピオンになりブイブイ言わせていた、そして前職の同期である粕谷哲に相談することにした。
我々の古巣でもある、六本木一丁目森タワーの1Fのスターバックスに集合していろんなこちらの事情をきいてもらった。
彼にはもっと美味しいコーヒーを提供するための知識としていくつかの情報源を教えてもらったり、彼の立ち上げるスペシャルティコーヒー店「Philocoffea(当時はまだ名前決めかねてた)」のコーヒー豆を提供してもらえるという
なお、前職当時はかろうじてフットサル大会でちょっと喋ったくらいでまじで接点がなかったので「どうして別に仲良くもなかったのにこんなに良くしてくれるのか」と聞いたら
「なんでだろうね?これがコーヒーの魅力なのかな?」とかなんかめっちゃかっこいいことをいっていた。関西人の同期から「カスの粕谷」という異名をつけられていた男のセリフとは思えない。
そんな中身も見た目もとてもかっこいい粕谷さんの最新のオススメ動画はっておくので見ておいて。
さておき、彼に教えてもらった情報源を読み漁り、これまで自分たちがやってきたドリップと得た知識、粕谷くんが発明した4:6メソッド を組み合わせたオリジナルのドリップが完成する。地域に合わせて少しPhilocoffeaが目指している味よりかはドッシリとした味わいにした。
50km圏内で唯一スペシャルティコーヒーが選んで飲める店
そんなわけで、50km圏内で唯一のスペシャルティコーヒー店が爆誕。当初こそ平日はヒマだったがコロナ前には平日にも一定程度の集客が望めるようになった。上がった利益でスタッフが雇用できるようになり、私の生活スタイルも徐々に安定を取り戻した。
コーヒーだけではなく、「食い物ないのか」という声にも答えられるようにしていった。サンドイッチやカレーなどもメニューも徐々に増やしていった。
こうして、一度は挫折しそうになった活動はまた徐々に広がりを持てるようになっていく。そして、その間の小高は行政や小高ワーカーズベースを主導に「課題先進地域」とか「日本最後のフロンティア」とか「若い起業家が集まるまち」というブランディングを進め、若い人たちを呼び込むことに一定程度成功した。地域は依然より若い人たちが増え、他の地域からも注目を徐々に集めるようにもなっていく。
しかし、私は自身の活動を含め、この状況に徐々に違和感を感じることになる。
私たちはなんの痛みに向き合っているのか
地域の人達の幸福は、美味しいコーヒー屋があって、便利に買い物できて、ご飯を食べられる場所があれば実現するのだろうか?あるいは行政や他の組織が進めてきたように、若い人を呼び込み新しいビジネスが生まれてくれば実現するのだろうか?
これらの根っこには、そういったサービスの機能そのものよりも、失われた自尊感情(地域の愛着、誇り、役割意識など)や、自分の生活に対する主体性(=自己決定権、選択権)の喪失感にあるように思えた。東電や国はもっと賠償をしろ!!と叫んでいる人たちの感情も、根っこのところでは同じに見えた。そして、それらを取り戻すことこそがもっとも重要な課題だと感じるようになった。
彼らが欲したのは、高級なサービスやインフラを充実させてくれ、ということではなく、自身のアイデンティティや役割を作り出してきた半身も同然の地域の喪失、それを自分の力ではどうしようもない無力感、そして望まない生活を強いられる自己決定感のなさというものが「怒り」として噴出しているのだ、そう考えると状況が整理できるように思う。
そして、この痛みを放置しては、どの問題も解決に進むことはできない。これまでの住民を放置して新しいまちをつくりたいのであればこの方法でもいいが、今の住民が豊かで幸せに暮らすことを重要視するのであれば、絶対に放置してはいけない。
これらの問題を放置して利便性だけを追い求めたあとに残るのは「便利だけど誰のものでもない愛着を持てないまち」であり、空虚である。いくらおいしいコーヒー屋だろうと「よく知らんヨソモノがうちの地域に勝手に立ててなんかやってるだけで、行ったこともなければ興味もない」となれば、それは豊かになっているどころか、自身の地域をさらに侵略されて自分の居場所をなくされているとなってしまえば、更に不幸を感じる材料にすらなる。
主体性を取り戻す。どうやって?
私たちが今主な活動拠点としている「アオスバシ」は、小さいながらそうした痛みに対して真正面から向き合おうと思い運営している。
地域の人達にまずは使ってもらいながら、関係性をつくりながら、どうやって彼らに「批判する側」じゃなくて「一緒に考えてもらう側」になってもらうかということを考えたりしている。
このあたりの取り組みについては、また次回の記事で更新しようと思う。
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