◆仕事が大好きな私が、コロナ禍の子育てに思うこと
徒然なるままに‥‥
親と子
わたしは、
転職したときも
同棲したときも
結婚を決めたときも
家を買ったときも、
親に相談はしなかった。
離れて暮らしている、ということが1番大きかったが、もし同県や近所に住んでいたとしても相談しなかったかもしれない。
まず「親に迷惑や心配をかけないこと」がわたしの体に染みついていて、行動指針のひとつになっていること。そして頭の片隅に「相談したって約20年のブランクがあるから、参考になりそうにない」という可愛げのない考えがあること。
少なくとも20年、「結婚」に至っては30年の時空の差。
0歳児だった子が、選挙権を持ったりお酒を飲んだりできるようになる。それは、
「わたしのときはねぇ‥‥」に対して、「いや、それいつの話やねん」とつっこんだって、悪くはないほどの時間ではないだろうか。
一方で、親からは「相談とまでいかなくても、考えてることくらいは教えてくれてもよかったのでは」という寂しいぞオーラを感じることはある。いつまで経っても子どもは子どもな訳で、我が子が最良の選択をするためにできることがあればしてあげたい、そう思うのは自然の摂理なのだろう。
親になって
親になった今、親の寂しさが、身に染みて理解できる。
おもちゃひとつ、絵本ひとつ、肌着ひとつ買うのにも、「これってプラスチックより木で出来てる物のほうが、、、」「口に入れるんだから、角は丸いほうが、、、」「オーガニックコットンのほうが、、、」。たった1mmの差だったとしても、何百円数千円の差ならば「安全」「安心」をとりたい。これも自然の摂理。
けれど、カエルの子はカエル。我が子もきっと、決断の時にわたしの顔を思い浮かべることなく、そして晴々とした声で事後報告の電話をかけてくることだろう。
寂しいが、それでいいのだとも思う。
わたしたちが伝えられること
わたしたちは今コロナに立ち向かっている。いや、もう、寄り添い歩こうとしている、という表現の方がいいかもしれない。
約1年、この1年、コロナ禍となり急激に時代が進んだように思う。進み、変化した。90度、ものによっては180度。例えるなら家庭用パソコンが出現する前と後のようだ(世代ではないけれど)
なりたい職業ランキングが総入れ替えし、モテる3大要素は様変わり、印鑑よりサインを求められる。テレワークが推奨され、プロセスより結果で評価されて、物を所有することより経験や体験が価値を持つ。
昭和に生まれた私たちが親としておちびにアドバイスをしてあげられることはいくつあるだろうか。
「受験では〜」「結婚ってね〜」「家を買うなら〜」なんて、きっとおちびにとっては「昔々あるところに」の御伽噺。
私たちができるのは、
「生きていればどうにかなる」
「人が嫌がることをしてはいけません」
「見えない相手にも感謝しよう」
「挨拶をするときは目を見て」
という道徳的なことだけなのかもしれない。