普通とは
色々忙しくて、投稿がつい後回しになってしまいました。つまらない話ですが、よければ、どうぞ。
普通
夏が、いつのまにか秋になって、そしてまた知らぬ間に冬になっていた。
2021年はあっという間に終わろうとしている。
そして、ついに私には成人式がやってくる。
いつのまに20歳になっていたのだろうか。ボケっと過ごしていたら、もうこんな歳なのか。
20歳は、もう立派な大人である。子供の頃のように、無知だからといって誰しもが守ってくれる時代は終わった。
今の私くらいの年頃になると、今までいかに親や周りの大人に助けられていたのか改めて気づく。特に、初めて一人暮らしをした大学入学当初は、それを痛感した。家事やアルバイトなど、一つとってみても自分がこれほど無知だとは思わなかった。
親のありがたみを知った。
そして同時に、親は私にかけがえのないモノを与えてくれたことに気づいた。
それが、「普通」と呼ばれるモノだ。
よく、「普通なことは幸せなこと」とか、「大切なことは失ってから気づく」とか、言われる。
それらはどれも、日常の大切さを説く上で使われる。
けれども、私がここで言う「普通」は、それとは似ているけれど同じではない何かだ。何かと言うより、感覚だろうか。
普通の感覚。
普通という言葉は、おそらく個人の習慣だったり、ある出来事に対し統計的に多くの人がするであろう行動だったりに対して使われる。
そして、私の言う「普通の感覚」というのは、どちらかというと後者に重きを置いているだろう。
普通の感覚は、人それぞれ少なからず差異が存在する。だが、多くは親からの影響を大きく受けたものとなっているはずだ。親の価値観を身近で見て育ったのだから当然のことだ。そして、差異が存在するとしても、善悪についてなどは同じ共同体内で似たものとなる。
この感覚。大人になった時に、改めて自分の「普通の感覚」について考えさせられる。
前述したように、あくまでこの感覚は大抵が「多くの人がするであろう」行動だったり、理想的な行動だったり、マジョリティの感覚であるはずだ。だが当然、反対にはマイノリティの人々も存在する。
こんな事言うべきじゃないのにとか、
なんでその選択をするんだとか、
義務教育内ではあまり出会うことのなかった、あからさまに異なる価値観の人々。
そんな人々に社会に出ると出会うことになる。
そして、自分は良くも悪くも一般的だと気づく。
決してマイノリティが悪いとか、そんなことは思わない。なぜならその感覚自体は、賛同者が多いか少ないかの違いだけの、単なる個人の感覚でしかないから。地域や住んでる場所などによっても、左右される。そのため、互いに相違点があるのは当然であり、無理に強制するものでもない。ただお互いに妥協点を探っていけばいい。
でも、自分は今の親に育てられ、この感覚を身につけた事に感謝している。自分でいうのは自慢のようで恐縮だが、どうやら私の「普通の感覚」は、自分や他人にいい影響を与えるであろう行動の起因となる基準を持った「普通」だからだ。
大変わかりにくい文章なので、言い変えるならば、私の普通の感覚は、自然に相手を思いやる方向へとベクトルが向いているという事だ。
だから、「普通」にしていれば、周りや自分に悪影響を与えることも少ない。
そうすれば、自然体で日々過ごすことができる。
「普通」という言葉は、しばしばあまり良くないイメージを持たれることがある。それ自体に「没個性」感が否めないからだ。
だが、私はそんな何でもない「普通」が好きだ。
普通に朝起きて、普通に学校へ行き、普通に友達とお話しする。
そんな普通の積み重ねが幸せなのだと感じる。
そして、今の自分と過去の自分、これからの自分の土台となるものを作り上げてくれた親に感謝する。
「子を育てる」というとてつもないエネルギーを注ぐ事において、私たち一人一人の親ほど、身を削ってくれる存在は他にはいないだろう。