イザナギとイザナミは誘惑の神だった
誘う(いざなう)二神
誘惑の「誘」は訓読みでは「誘(さそ)う」または「誘(いざな)う」である。さて「いざなう」という音は、古事記神話に出てくる伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)と同じである。後ろについている「岐(ギ)」と「美(ミ)」はそれぞれ男と女を表している。ということは、イザナギは「誘う神の男版」、イザナミは「誘う神の女版」、それを表すネーミングだと解釈できる。
では、イザナギとイザナミは誰を何に誘っているのか。まず「誰」については「お互いに」ということになるだろう。古事記の記載を見る限り、他の誰かを誘っているような場面は見当たらない。だから「お互いにお互いを誘っている」としか受け取りようがない。
次に、かの神は何に誘っているのか。これも古事記を読む限り、「国産み」に決まるだろう。一人で国を産むことはできない。相手が誘いに乗ってくれることが国産みの条件である。だから、お互いに「国を産もうよ」とお互いを誘っている。これがイザナギ・イザナミの本性と言えるだろう。
古事記の原文を読んでみる
古事記には、その誘(いざな)いの仕方、すなわち「いかにして相手を誘惑し、誘導するか」が具体的に書いてある。
古事記の原文から引用しよう。
♡ <イザナギとイザナミのラブ・コール> は実にストレートだ。現代語訳してみよう。
♡ かと思うと、<イザナギとイザナミの初夜> は意外とウブだったりする。
♡ ちなみに、原文を見てわかるように <ラブ・コール> と <初夜> の順番は、<初夜> が先で <ラブ・コール> が後。しかもその間に子供を産んでいる。こんな恋をしてみたい ・・・?
天の御柱を廻る意味
ところで、そうなると、途中の文面がまたまた気になってくる。天の御柱の周りを二人がぐるぐる廻る場面である。
物語の流れとしては「声をかけるのが女が先か、男が先か」が大事なポイントのように書かれている。けれども、これはその後の展開、すなわち
の前振りなのである。そうじゃなかったら、いきなりすぎる。そのあまりにも具体的で生々しい行為の前に、やや遠回しに「美斗の麻具波比」(みとのまぐわひ)と言葉で表現したわけだ。(この言葉は現代語としても通用する言葉だが、最も古い使用例がここにある)
そして「美斗の麻具波比」の前にさらに前振りがある。それが「天の御柱を廻る」ことである。すなわちイザナミは3段階の誘い(いざない)方をしているのである。手が混んでいるというより、さすが誘い(いざない)のプロと言ったところだろうか。
でも、私が言いたいことはそこじゃない。図で説明しよう。
上左図が天の御柱だ。御柱は天に向かって真っ直ぐに伸び、その周りを丸く囲むように男女が動く。これはその後の展開、すなわち国産みのための行為のいわばシミュレーションだ。
私が言いたいことの傍証として、ヒンドゥー教の最高神シバのシンボル、シバ・リンガを挙げよう。上右図がそれだが、信者がリンガの上から掛けた水が滑らかに流れ落ちるように流路が彫ってある。真っ直ぐの棒とそれを囲む丸、コンセプトは天の御柱と同じである。
私が言いたいこと、もうお分かりだろう。これは2進法なのである。古事記の記述ならびにヒンドゥー教の儀式のあり方から、0が女、1が男であることは明らかである。
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〜 古事記ワールドの仕掛け 〜
▷ 古事記の成り立ち
▷ イザナギとイザナミは誘惑の神だった
▷ 因幡のしろうさぎは何色か