「疑え」というけれど
「疑え」ということを強調する人がいます。議論においては「前提を疑え、導出を疑え、結論を疑え」となるのでしょう。でも、それは的外れだと私は考えます。なぜなら、それをやり始めると、議論がいくらでも後退するからです。そして、生産性を失います。
むしろ私はこう言いたい。「支えろ」と。説得力が弱いと思ったら、別の根拠を挙げるなり、例を挙げて説明するなりして、あの手この手で支えるべきだと思うのです。その方が、よほど生産的です。
「疑え」というのは論証には向いているんでしょうけれど、議論の場には合わないんじゃないでしょうか。むしろ、自分の意見(主張、考え、見方)を支えるいろんな理由をあげたり、相手に分かりやすい例を挙げたりする方が、よほど説得力が増すんじゃないでしょうか。
対立する2つの論を比較検討する場合も同じです。片方の論を「疑って」かかれば、いくらでも疑えます。そして、行きつく先は「どちらも偽(正しいとは言えない)」です。そんなことをするよりも、それぞれの論を「支える」根拠や理由をどんどん提出する方がよほど生産的です。片方の論を否定してかかるのではなくて、両方の論を肯定してかかれば、いろんなことが見えてきます。そうしてこそ、議論のし甲斐があるというものです。
議論において「どうやって説得力を高めるのか?」というと、根拠・理由を挙げること、これに尽きます。新しい視点や別の立場から、1つといわず、2つでも3つでも挙げればいいのです。それをきちんとやることが「論理的な考え方」であり「論理的な説明」なのです。そしてそれは「正しい論理」とは別種のものです。
ネット上でよく見かけますね。否定するばかりの議論、無限後退に陥った議論、そうして生産性を失った議論。なぜそうなるかというと、「正しい論理」と「議論の論理」の区別がついていないからです。私はそう考えます。
一方で、ネット上でよく見かけるのが、言いっ放しの発言です。一見、議論の形を成しているように見えながら、中身は主張の羅列、感想の羅列、語感(勢い)の羅列だったりするもの。「議論の論理」に必要なものが分かっていないからです。私はそう考えます。
「正しい論理」は、実は否定するのが得意です。それは「100%絶対に正しい」ものだけを「真」といい、「99%正しい」ものも「まるでデタラメ」なものもひっくるめて「偽」とします。
「議論の論理」は、肯定することが目的です。いろんな根拠を挙げて、いろんな視点・立場から理由を持ち寄って、論を支えようとします。そこから説得力が生まれます。そのように受け取ればよいのではないでしょうか。
ところで、ここでは「説得力」という言葉を使っていますが、本当は他人を説得することなどできません。私は実はそう思っています。ここに私が書いていること全体について言えることですが、私がみなさんを説得することなどできるはずがありません。私にできることは、みなさんに納得していただけることを期待することだけです。
ですから「説得力」というのは、もうちょっと正確に言うと「他の人に納得してもらえる力」ということになるでしょうか。そしてもちろん、みなさんいろんな考え・視点をお持ちですし、世の中には変わった人もいますから、全員が納得してくれるということもあり得ないことです。
いずれにせよ、大事なことは「意見(主張)には必ず理由(根拠)を添える」こと、これに尽きます。そして、それをやらない人が(特にネット上に)多いのです。
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