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「雨にも負けず」のアンバランス
宮沢賢治の科学者素養が光る3編。理系目線で味わってみよう。
宮沢賢治も知っていた、二酸化炭素の温室効果
宮沢賢治の童話「グスコーブドリの伝記」の最後の部分です。1932年(昭和7年)の作品です。
そしてちょうとブドリが二十七の年でした。どうもあの恐ろしい寒い気候がまた来るような模様でした。・・・
ところが六月もはじめになって、まだ黄いろなオリザの苗や、芽を出さない樹を見ますと、ブドリはもう居ても立ってもいられませんでした。・・・ある晩ブドリは、クーボー大博士のうちを訪ねました。
「先生、気層のなかに炭酸ガスが増えてくれば暖かくなるのですか。」
「それはなるだろう。地球ができてからいままでの気温は、大抵空気中の炭酸ガスの量できまっていたと云われているくらいだからね。」
「カルボナード火山島が、いま爆発したら、この気候を変えるくらいの炭酸ガスを噴くでしょうか。」
「それは僕も計算した。・・・地球ぜんたいを平均で五度くらい温にするだろうと思う。」
「先生、あれを今すぐ噴かせられないでしょうか。」
「それはできるだろう。けれども、その仕事に行ったもののうち、最後の一人はどうしてもにげられないのでね。」
・・・
そしてその次の日、イーハトーブの人たちは、青ぞらが緑いろに濁り、日や月が銅いろになったのを見ました。けれどもそれから三、四日たちますと、気候はぐんぐん暖かくなってきて、その秋にはほぼ普通の作柄になりました。・・・その冬を暖かいたべものと、明るい薪で暮らすことができたのでした。
タイトルが「伝記」ですから、亡くなった人の話なんですね。
ところで、これは「地球温暖化に警鐘を鳴らしている」わけではありません。むしろ逆で、そこにあるのは「東北地方の冷害対策」という発想ですから「二酸化炭素による地球温暖化」を良いものと受け止めているということでしょう。
「雨にも負けず」のアンバランス
雨にも負けず
風にも負けず
・・・
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
・・・
そういうものに
わたしはなりたい
全体的に質素な生活ぶりが描かれている中で、一ヶ所だけやけに豪快と思えるような記述がある。「一日に玄米四合」のくだりである。直後には「味噌と少しの野菜を食べ」というようにまた質素な生活ぶりに戻っている。なんだか一ヶ所だけアンバランスな感じがしてしまうのだ。
そう、現代の食生活から考えると、多すぎるのだ。今どきの日本人の食生活では、食う米の量はずっと少ない。もちろん大量のおかずとデザートとおやつを食うからだ。
でも、この食べ方が実は合理的なのだ。説明しよう。
米には動物にとっての必須アミノ酸9種類のうちの8種類が、他の穀物に比べて多く含まれている。残りの1種類の必須アミノ酸を豊富に含んでいるのは大豆だ。だから、たくさんの米と適量の大豆を食べれば、人に必要なアミノ酸は足りるのである。宮沢賢治の「雨にも負けず」の中のフレーズ「 … 一日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べ … 」は端的にそのことを言い表している。
だから人々が肉を食べるようになると、途端に米の消費量が減るのである。肉には必須アミノ酸9種類がすべて豊富に含まれる。これまでたくさんの米を食べることで得ていた必須アミノ酸は、少量の肉を食べることで賄えるからである。
日本の米余りの理由は、俗に言う「パンや麺を食べるようになったから」ではない。肉を食べるようになったから、大量の米を食べる必要がなくなったのだ。「雨にも負けず」から、そういうことも分かる。
フランドン農学校の豚
まことに豚の心もちをわかるには、豚になって見るより致し方ない。
そりゃそうだ。さて、
・・・一つの布告がその国の、王から発令されていた。
それは家畜撲殺同意調印法といい、誰でも、家畜を殺そうというものは、その家畜から死亡承諾書を受け取ること、又その承諾証書には家畜の調印を要すると、こう云う布告だったのだ。
さあそこでその頃は、牛でも馬でも、もうみんな、殺される前の日には、主人から無理に強いられて、証文にペタリと印を押したもんだ。・・・
だから「フランドン農学校の豚」も承諾書に印を押すように迫られるというわけだ。
「実はね、この世界に生きてるものは、みんな死ななけぁいかんのだ。実際もうどんなもんでも死ぬんだよ。人間の中の貴族でも、金持でも、又私のような、中産階級でも、それからごくつまらない乞食でもね。」
こういう(↑)言い方で説得しようとして、そしてこう(↓)続ける。
「また人間でない動物でもね、たとえば馬でも、牛でも、鶏でも、なまずでも、バクテリヤでも、みんな死ななけぁいかんのだ。蜉蝣のごときはあしたに生れ、夕に死する、ただ一日の命なのだ。みんな死ななけぁならないのだ。だからお前も私もいつか、きっと死ぬのにきまってる。」
何ともひどい話とも言えるが、承諾書を取らない現実の畜産と比べてどっちがよりひどいか、あるいはどっちが比較的良いかと考えると、どっちもどっちと思わざるを得ない。
ところで、この作品の中で数字ならびに計算が出てくるのは次の箇所だけだ。
「ずいぶん豚というものは、奇体なことになっている。水やスリッパや藁をたべて、それをいちばん上等な、脂肪や肉にこしらえる。豚のからだはまあたとえば生きた一つの触媒だ。白金と同じことなのだ。無機体では白金だし有機体では豚なのだ。考えれば考える位、これは変になることだ。」
豚はもちろん自分の名が、白金と並べられたのを聞いた。それから豚は、白金が、一匁三十円することを、よく知っていたものだから、自分のからだが二十貫で、いくらになるということも勘定がすぐ出来たのだ。豚はぴたっと耳を伏せ、眼を半分だけ閉じて、前肢をきくっと曲げながらその勘定をやったのだ。
20×1000×30=600000 実に六十万円だ。六十万円といったならそのころのフランドンあたりでは、まあ第一流の紳士なのだ。
この辺の数値を現在の度量衡ならびに相場で書いてみると、こう(↓)なる。
2021年8月現在の白金(プラチナ)の相場は ¥4,000/g だから、1匁=3.75g では ¥15,000(童話執筆時の500倍)となる。
また、1貫=1,000匁=3.75kg だから、豚の体重は 20貫=75kg(今の豚よりだいぶ小さい)
以上から豚とプラチナが重さ当たりの価値が同じなら、その豚の価値は 20×1,000×3.75×4,000=300,000,000、実に3億円となる。
さて、これが「第一流の紳士」と同じと言えるかどうかは分からないが。
こういう読み方も面白い。紳士と比較するあたり、皮肉っぽくもある。科学者素養のある宮沢賢治の作品だから、こんな読み方もまた彼の童話の読み方の1つであって良いだろう。
◇ ◇ ◇
〜 宮沢賢治の立ち位置 〜
▷ 宮沢賢治の童話にみる、自然の中での人間の立ち位置
▷ 童話「どんぐりと山猫」にみる、個性・差別化・あるがまま
▷ 「雨にも負けず」のアンバランス