だってぼくは社会科見学に来てるだけだもん


ときどき自分が失敗作のように思える。
こんなことを言うとわたしの中の妖精さんが「そんなこと言わずに貴方の持っているものを見つめて愛してあげて」と言う。それに対しわたしはわかってますからだまってて下さいと言う。そうしていつまでも自分を愛してあげることができないでいると「この贅沢ものがァァ!」と鬼の形相で怒られる。あんなに優しかったのに。

お花を見ると何故かかつてのクラスメイトたちが思い起こされる。キラキラして可愛くて可憐で明るい女の子たち。余裕のある感じ。わたしもそのキラキラに縋っていたけどわたしのはニセモノだったから。

お腹の中には人間への恨みがいっぱいで美しい音楽を聴くと「ごめんなさい」と言いたくなる。
何に?
表面的に綺麗なこと謳ってる音楽には何も感じないけどエンヤとかウィーン少年合唱団とかそういう異次元の美しいものに触れると「いや、なんかごめんなさい」のきもち。

恨みつらみ怒り哀しみでいっぱいだからと言って失敗作ではない。わかっている。沼の中で見つけた自分なりの幸福がある。
お腹の中に満ち満ちている黒々とした感情を誤魔化さないでいられることが自分なりの幸福なのだと思う。


人生全体を作品として見なくていいのだと思う。
過去は今のための材料で、今だけが完成品(仮)なのだと思う。
人生全体を作品と見なすか今の自分だけを作品と見なすかによって計画的に生きるか本能的に生きるかが変わるんだろうなぁと唐突に考えた。作品と見る必要はないけれど、たとえばぁの話。

臨死体験したことのある人が自分の人生をダイジェストでスクリーンで流されたと言っていたけどやめてくれ〜ー!のきもち。
そんなことされたら死んでも休まらない。

わたしは過去がいらない。こう言うと時おり勘違いされる。過去は過ぎたものだからどうしようもないもんね、気にしてもしょうがないもんねって。そう言うことじゃない。過去は過ぎたものだから、変えられないものだからいらないと言ってるわけじゃない。気にしていないわけでもない。

むしろ逆。バチくそ気になる。毎日のように過去に押し潰されながら生きてる。過去がどうでもいい=過去を忘れたと言うことじゃない。
過去がいらないと言うのは、今の自分、今のその人だけを見ようと試みている思いから。

今目の前にある作品を見て、造り上げられるまでの過程は、知っても知らなくても大丈夫。今その人がどんな世界を持っているかが肝心で、一流の企業を出ていても少年院を出ていてもどちらでもいい。一流の企業を出てるとか少年院を出てるとかは材料でしかなくて、それによってどんな見解を持った何に重きを置いたどのような人が出来上がったのかが知りたい。

それでも過去を知る必要があるのは、責任の所在を考える時。たとえば目の前のガキンチョが悪さをしたら本人のせいだ。で終わらせれば簡単だけど大抵は環境におおきな要因がある。そういう場合は背景(過去)を顧みる必要があると思う。

過去を知りたくないわけじゃない。知ったら知ったで納得する。
この人にはこんな材料(過去)があるから感性が豊かなのだね。
この人にはこんな要因(過去)があるから荒れ狂っているのだね。
この人にはこんな養分(過去)があるから諦めた落ち着きがあるのだね。
この人にはこんな起源(過去)があるから何かと依存型なのだね。

だけど多分、今の自分、今のその人だけを見れば想像がつく。どんな風に傷ついてどんな風に凌いできたのか。
清濁併せ呑んでる人は傷つき傷つけた生き方をしてきただろうし、今現在も人を傷つけて厭わない人はずっとそうやって生きてきてる。ぜんぶではないけど、今を見ればわかると思う。

何が言いたいかというと一言二言でコトバの真意まで伝え合うのはむずかしいねということ(そんな話してたかな)
過去はいらないと言うと確かに過去は忘れたみたいに聞こえるもんね。まるで過去の呪縛から解き放たれて今を謳歌しているかのように。実際は真逆で過去の沼でもがきながら今に縋っている。

どうでもいいどうでもいいどうでもいいと言うのはあっちいけと言うことじゃなく軸は過去にないんだよと言うきもちから。軸は今のわたし。
ヴァーーーー(ときどき叫びたい)

前半の人生でたぷたぷに蓄えた自分の中の黒いものを何か違う形で表現して充足感を得るのは、一種の人体実験みたいなものかも。黒いものを材料として体に広がる幸福感を生み出す実験。

それをして何になるのと言うことをやっていいよ。したいようにすればいいよ。
社会科見学に来てるだけだもん。



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