泣く習慣が戻って。


孤独と闘ってきた女の子の末路が穏やかなはずないでしょ。だから病んでる自分を責めないであげて。末路という言い方はあんまりよくないかな。成れの果て。もっとよくない。

病院を変えたらふかふかのソファに座らせてくれるから前より大切にされている気持ちになれた。診察の前に性格診断テストを受けたら無邪気度がとても高いと言われた。ちょっと照れた。

だけど言動を褒められるとうれしくて目の前の相手を失望させないように褒められた自分をキープしなきゃといい子スイッチがOnになりそうになる。そのスイッチの正式名称はみんながすきなわたしでいないとこわいこわいさみしいさみしいどこにも行かないでスイッチ。

両親はトトロのさつきちゃんとメイちゃんみたいな子が好きだったからわたしは好かれる人格を生み出した。生きるため愛されるために生まれた数多くの人格が一人ずつ溶けていって繊細で傷つきやすい自分だけが残った。

自分ひとりで生きていけるくらい強くてニコニコした女の子が最後に溶けてふかふかのソファで大切にされたい女の子だけが残った。

あの頃と比べたら強くなったのだと思う。だけどほんとは強くならなくてよかった。この子に合う環境はどこだろうといっしょに悩んでくれる人が欲しかった。

いい子でいなきゃと気持ちを押し殺して生きてきた子たちはとても可愛いと思う。大丈夫だよもう終わったよって言っていっしょに好奇心の赴くままに欲しいものを買いに行きたい。ぬいぐるみでもお洋服でもなんでも🧸

小さな子が褒められているのを見るのはいまだに好きじゃないから、そう言う場面に出くわすと誰にも気づかれないように半透明になってフェードアウトする。その世界からいなくなることが私にできる身を守ることだから。

ときどきセカイは「ふたしかなもの」が好きじゃないのだと思う。いい子はいい子でいてほしいし大人は大人でいてほしい。だけどお店の鏡に映った自分がおとなサイズの体であることに違和感を感じて目に見えるものはなんてふたしかなんだろうと思う。心は疲れた5歳児なのに。

子どもの心のまま大人になった子どもたちは自分で自分を可愛がってゆくしかないからヒーヒー言いながら自分を可愛がる。じぶんは手間暇かけるに値する子なんだと思いたい。

それでも効かない薬に一日中苦しくて何もできない日はボサボサの髪でメイクもできない。心も見た目もかわいくない。晩飯を作ることもできなくていつものスーパーでお弁当を買ってきてそれをオレンジ色の灯りの下でふたりで食べてる時間がわたしの人生のハイライトがいいな。

同じ躁鬱でずっと苦しんできた子が遠くに行ったことを耳にするとお疲れさまよくがんばったねと思う。むかしは残念だという感情が湧いてきたけど今はまた会えるような気がしている。いつかどこかでもう会っていてその経験をなぞることができる気がしている。

SNSは一瞬の幸せをそれが全てかのように映すけど実際の暮らしは地味な良いことと地味ないやなことがとんとんで、この世界からいなくなった子たちはたまの楽しみのために日々の苦しいのを耐えることから解放されて遠くの世界でみんな集まっていてそこに加わりたいとたまに思う。

泣いて泣いて泣いてティッシュペーパー何箱使ってもいいから泣いたら心が少しワイパーで磨かれたようなきもちになると思っていたけどそれだけじゃないんだ。泣くことは産声で、生まれ変わりたい。体はこのままだとしても体の中の記憶がぜんぶなくなって生まれ変わりたい。泣いて泣いて泣いているとそれができる気がして。

いなくなった人は聖人君主のように言われるけど自分がいなくなったときにそれだけだったらさみしい。他のにんげんと同じで欠けていて、毒もあったし不満もいっぱいだった。だけどそんなところも含めて彼女は僕にとって例外でだいすきだった。そんなふうに言われたい。

誰かを大事に思うことは、だいすきと思うことはその人だけが例外になることなんだと思う。例外でかわいくなることなんだと思う。そんなきもちを泣きながら反芻している。



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