寄り道と遠回りが好きな自分でいいのだよ
世界の片隅で孤高の哲学者をしてるにゃんこ達みたいにしっとりじっとり暮らせたらいいけど
わたしゃにんげんなのでそうもいかない︎︎。
ねっちょりぐったりしてることが多い( ꒪⌓꒪ )
外の世界の騒音はできればシャットアウトしたいけど
できる時もあるしできない時もある。
騒音から離れたところで自分の宝物を大事にできる日もあるし、騒音の波に飲みこまれて陸で溺れている時もある🤤
ツイッターのタイムラインをただぼーっと眺めて別に今見たいわけじゃないのにぼーっと眺めて情報の渦の中でなにを信じればいいかわかんなくなって
陸で溺れる( ꒪⌓꒪ )
溺れるたびにひとりの時間をたくさん持って自分を信じる原点に戻ることができたらいいな。
🐢 🐢 🐢
電話がニガテです。
電話どくとくの間がわからなくて、相手が話し出すタイミングに被ってしまう。
いつも以上にフワフワ話すから、電話切ったあとに呼吸していなかったことに気づく😇
お店の予約とか、夫に頼めることはキホン夫にお願いしている。
自分の洋服のお取り置きはさすがに頼めないから
フワフワしながらがんばって用件を伝えてまた酸欠になる。
〇歳なのにそんなこともできないの?ってわたしの中のいぢわるな妖精が囁くから
何歳だってできないことはできないんじゃいってぐずる。
むりしてやるより得意な人に任せて逆も然りで分業作業で生きていきたいの。
🐢 🐢 🐢
都会で暮らしていると、置いていかれる感覚になることが多い。
迷ってるうちに期間限定のドリンクはなくなるし焼きたてのクロワッサンもなくなってゆく。
駆け込み乗車はおやめくださ〜いのかけ声はもはや熱湯風呂の押すなよ押すなよ的なものに聞こえるから
小走りもできない自分が空気の読めない人なのかと思えてきてしまう。
わたしは歩くペースがゾウガメぐらいだから🐢一日にひゃくごじゅうまんにんに抜かされてゆく。
むりに抜かしていく人。は別にいいのだけど
抜かして行った人が先の赤信号で捕まってるのを見るのがなんかやだ。
世界の秩序がくずれる!(?)
ときどきわたしを抜かしたあとに歩くペースが遅くなる人がいるのだけどあれはなんなのだろう。
前方にゾウガメが歩いているのがやだ?🐢
それともわたしに背後霊になってほしいのかしら。
魂吸い取ったるぞ〜( ᜊ°-° )ᜊ
ここは急ぎ足で歩かないと危ないなってときはさすがに歩くペースを速めるけど
そうじゃないときは心の中で左ウィンカーを出して「どうぞ抜かしてください」
譲れば自分に平穏が訪れる。
置いていかれてもいいの。
置いていかれた先でマイペースにスペーシーに歩きたいの。
🐢 🐢 🐢
10代の頃いろいろあってあまり学校に通えなかったから結婚して生活が安定してから独学でべんきょうしてきた。
ぼんやりサボり癖のある生徒だけども︎︎(◜𖥦◝ )
独学でべんきょうするのがそろそろ厳しいなぁと感じているので通信大学に通ってみようかなぁとこれまたぼんやり考えている。
自分のペースで哲学の授業を受けてみたい。
自分の人生はさいしょが修行で、20代は首のすわっていない幼少期で、30才から学齢期が始まったと思ってるから
地球で遊んで学んでいたい🌏
サボったりぼんやりしたり休み休み。
成人期、壮年期、老年期
が訪れるのは
来来来世かも。
きっとほとんどの人たちが数年あれば習得できることをわたしは倍倍の時間をかけないと身につけることができない。
とくにやっぱり人間関係に関してはそう。
人と話すことは好きだし優しい人と関わるのは知らない世界を教えてもらえることだからとくに好きなのだけどやはり考えすぎてしまうタイプだから得意とは言えないこと。
ちょうどいい距離感がわからなくて詰めすぎちゃいそうになったり逆にもっと関わりたくても近づきすぎてだめになったら怖いから怖気づきながら距離を探ったり
今はないけどしばらく前までは好かれる必要のない人にも好かれようと必死になったり。
あの言い方間違えちゃったなぁとかあのときの反応よくなかったなぁとか
とにかく考えすぎちゃうから
休み休みじゃないとできない。
それでも縁があって会ったり話したりできる人との結び目を大事に思っているから
亀の歩みで一つずつ自分の中に落としこむことができたらいい。
落としこむ。という感覚が、自分にとってはとても大事なのだと思う。
頭ではわかってるけど、お腹ではまだ納得していないようなことが
自分で体験してみて「こういうことだったのか!」と腑に落ちる感覚。
どこどこの紅茶はおいしくて口の中にフレグランスが広がるよと聞いて「へぇ〜」と半信半疑でいざ自分で試してみたら「!!」
〇〇ちゃんが言っていたことはこう言うことだったのか!
🐢 🐢 🐢
起こったデキゴトをいったん自分の中に入れて思いを巡らせることができるのは
内向的な人の特性でもあるし、生き辛さでもあると思う。
何かと対面した時、その場ですぐに反応できない。
いったん自分の中に入れて、どう言うことなのか、それに対してどう言うきもちを感じているのか吟味した上で結論づける。ふむ
だからその場では反応できないのにのちのち凄くガサガサしたきもちになることもあるし、のちのち違う言い方していればよかったああ(涙)って思うこともある。
即座にコトバが出ないことっていっぱい。
テンポのいい人たちとの間に時差があるけど
時差があるからと言ってそのきもちはニセモノじゃないんだ。
「あの時のあれホントは嬉しかったんだよ」
「あの時ホントはこう言いたかったんだよ」
と時間差で伝えることもあるけど
夫はだいたい忘れている。
われわれの脳みそは違う工場で作られたのですね(◜𖥦◝ )
こないだ「時間」というテーマについてお話しした。ということを何日か前のnoteに書いたけど
あのときもやはりひとり取り残されていた。
周りの人たちが「時間をムダにしてるのはどんなとき?」というテーマでどんどん先に進んでいく中わたしは
時間ってそもそもムダに使っちゃいけないんだっけ?なんでそう感じるようになったんだっけ?そもそも有効に時間を使っていると感じることもないかも。だからムダもよくわかんない。なんでだろう?なんでムダに使っちゃいけないんだろう?なんでなんでなんで…
と、
順調に思考の迷子になっていた。
限られた時間の中で自分なりのゴールまで辿り着くことができる人もいるけど
わたしはだいたい寄り道して道に迷ってコースアウトしてジュゲムに救われて終了。
また新たな「気になること」は見つかるけど、ゴールまでは辿り着けない。
ゴールは見つからないけど、また新たなコースが始まる感じはするから
たぶん、白黒はっきりさせることを求めていないんだと思う。
テーマを貰ったら
テーマの中を迷って迷ってぐるぐる遠回りすることが醍醐味だと思っていて
白黒はっきりさせたいわけではないのだと思う。
それってたぶん見る人から見たらのろまで非効率的だけど、わたしはその遠回りする過程がないと自分の中に「落としこむ」ことができない。
そういうことが山ほどある。
🐢 🐢 🐢
外の世界から見たときの自分がどんな人間なのかがまったく気にならない。と言ったら少しうそになるけど
優先順位は高くないよねってつどつど思う。
好きな人と暮らしながら自分の世界を深めるような暮らしができたらわたしはしあわせだから
それ以外は付随的な要素なんだと思う。
ひとりの時間をたくさん持つこと
ときどき心の交わりを感じる人たちと関わること
自分の神さまと暮らしてゆくこと
などなどの要素が、
わたしの世界をほのぼの照らしてる。
ひとりの時間でしていることと言ったらぼんやりするかぐるぐる思考するかのどちらかしかないけど、
今日やりたいことリストはほとんどが明日以降に延期されるけど、
ぼんやりとぐるぐるの中に自分なりのしあわせが見つかることが多いから
ぼんやりぐるぐるを優先している。
定期的に訪れる鬱といっしょに生きてるしフラッシュバックもなくなっていない。
数年前からずっと同じようなこと繰り返しているような気もする。
進化か退化かはわからないけど変化はしてると思うから
寄り道と遠回りが好きな自分でいいのだよと思う。
寄り道して遠回りしてどんどん変化していくことに面白さを見出せたらいいのだと思う。
ゴールに早く辿り着きたいわけじゃなくて
自分の世界を深めるような暮らしがしたいだけだから
寄り道して遠回りして迷子になって脱線して…
をくり返しながら
自分なりの答えを探していければいいのだと思う。
いちばん繊細なものといちばん汚いものとが混ざりあってかけがえのない自分を作っている気がするけど
その自分ってどんな自分だろう。
それもまだまだ霞んでいる。
模索して模索して模索した先に
ほんのり見えてくるものなんじゃないかな。🐢
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