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北九州キネマ紀行【若松編】映画「花と龍」の作者・葦平と健さんを結んだ怪談ラジオドラマとは


それは若松の芥川賞作家、火野葦平の「怪談宋公館」

九州最北端の福岡県北九州市。
ここにあるまち、若松。
若松は数々の映画の舞台になってきた。
そのうちの一本、「花と龍」をめぐるお話。

「花と龍」の原作者は、若松出身の芥川賞作家、火野ひの葦平あしへい(以下葦平)。

「花と龍」は、何度も映画化された。
2014年に83歳で亡くなった高倉健(以下、健さん)も、出演した一人。
健さんが出た映画は「日本侠客伝 花と龍」という。

健さんと葦平は、直接の面識はなかったと思われる。
しかし、健さんと葦平は、ある〝怪談話〟で結ばれていた。

それは、葦平が1939(昭和14)年に発表した「怪談宋公館そうこうかん」。
葦平が日中戦争で中国に出征していた時、「南支日報」という新聞に発表した。

これは小説、物語‥‥と紹介したいところだが、葦平は「これは決して作りばなしではなく、出鱈目でたらめでもなく、中に出てくる人も名も実在の人」と書いている。
つまり、実話だと言っている。

そして「まあ、ひとつ、まゆつばでもつけて、聞いてください」と語り始めるのである。

健さんと火野葦平のこと

健さんは今の福岡県中間なかま市の生まれ。
中間市は、北九州市の隣。
つまり、健さんと葦平が住んでいた所は、距離的にそんなに遠くない。

健さんは北九州市と、ゆかりが深い。
健さんは現在の北九州市八幡西区にある福岡県立東筑とうちく高校の卒業生。
遺作となった映画「あなたへ」(2012年)は、北九州市でもロケが行われ、映画のラストは健さんが門司港を歩くシーンだった。

健さんの命日(11月10日)のころになると、東筑高に近い堀川ほりかわには、健さんをしのび、黄色い〝ハンカチ〟がたなびく。

堀川にたなびく黄色い〝ハンカチ〟。健さん主演の映画「幸福の黄色いハンカチ」は1977年公開

一方、火野葦平は1906(明治39)年、若松に生まれ、1960(昭和35)年に53歳で亡くなった。

葦平の若松の旧居・河伯洞(はかくどう)にある葦平の書斎。河伯洞は「河童(かっぱ)が棲(す)む家」の意味。葦平は若松に伝説が残る河童をこよなく愛した

葦平は日中戦争で中国に出征していた1938(昭和13)年、小説「糞尿譚ふんにょうたん」で芥川賞を受賞。
戦時中は「麦と兵隊」など、兵隊3部作と言われる作品を発表し、国民的なベストセラー作家になった。
しかし、戦後は戦争責任を問われ、一時公職追放を受けた。
亡くなった後、日本芸術院賞を受賞している。

「花と龍」は、葦平が公職追放解除後の1952(昭和27)年から1953(同28)年にかけて、読売新聞に連載された。
葦平の父・玉井金五郎と母・マンを主人公にして書いた実名小説である。

小説の主な舞台は、明治から昭和にかけての若松。
玉井金五郎は裸一貫から、石炭を陸から船に積み込む「玉井組」を興した人(若松は、明治から大正のころ、石炭の積み出し港として大変栄えた)。
小説は、金五郎とマンの波乱に富んだ人生を描いた。

「花と龍」の舞台、若松。左のレトロな建物は旧古河鉱業若松ビル。古河鉱業が石炭事業展開のため、1919(大正8)年に建てたオフィスビル。右の赤い橋は若戸(わかと)大橋

「花と龍」は何度も映画化され、健さん版のほかに、藤田進版、石原裕次郎版、中村錦之助版などが作られた。

健さんは1969(昭和44)年公開の「日本侠客伝 花と龍」 で、葦平の父・玉井金五郎を演じた。
この年、健さんは38歳。葦平はすでに亡くなっているので、健さん版は見ていない。
「日本侠客伝 花と龍」は好評だったのだろう。続編として「日本侠客伝 昇り龍」が1970年に公開されている(こちらは原作が葦平になっているが、小説「花と龍」と直接の関係はない)。

少年・健さんの心をつかんだラジオドラマ「怪談宋公館」

健さんは子供のころ、葦平原作のラジオドラマ「怪談宋公館」を聴いた。
このエピソードは、健さんの著書「少年時代」に出てくる。

それによると、健さんは8歳の時、肺の病気のため学校を休学した。
一人過ごす日々の友だちは本とラジオ。
病床の少年・健さんはラジオドラマ「怪談宋公館」を聴いた。
8歳というと、1939(昭和14)年。
テレビはまだなく、放送メディアはラジオだけだった。

健さんはこれをを聴いて、「おさなごころ鷲掴わしづかみにされた」と書いている。

「怪談宋公館」は、日中戦争で中国に出征していた葦平が1939(昭和14)年、現地発行の「南支日報」という新聞に発表した。
発表直後にラジオドラマになったということは、かなり話題になったのだろう。

「少年時代」によると、このラジオドラマは夜9時から、2夜連続で放送された。

健さんの母親は、健さんの体を案じ、ラジオを聴くのは夜8時半までとしていた。
放送2日目の夜、その日に限って、健さんの母は健さんの部屋に9時過ぎまでいた。

寝る前は体温を測るのが日課だったが、健さんはドラマを聴きたさのあまり、こっそり体温計を脇から外し、
「熱がないけん、ラジオば聴かせて」
と母親に懇願した。

〝ほんとうにあった話〟「怪談宋公館」

「怪談宋公館」はおおむね、こんな話である。

中国・広東市に入城した葦平ら将兵は、大きな屋敷(4階建ての建物)を居住地にした。
ここは、かつて「宋子文」という蒋介石の姻戚にあたる人物の愛人宅だった。
宋子文は中国の政治家で、実在した人物。

しばらくすると、その家に怪異現象が現れる。
使用人たちが「幽霊が出る」と怯え、逃げ出した。

葦平たちは本気にしなかったが、やがて金子軍曹が寝ていた部屋に若い女の幽霊が現れる。
ついには葦平が寝ていた部屋にも男の幽霊が現れる。

葦平たちは怪異の原因をさがした

怪異が続き、葦平たちは「地下室」を調べることにした。
地下室とは、庭にある「素晴らしく立派な」防空壕。
ここに怪異の原因があるとにらんだ。

この防空壕は、なぜか突き当たりの壁が不自然に新しい。
もっと奥に部屋があるはずなのに、壁を塗り固め、そこから先に行けないようにしているようだった。
ここを掘り返せば、怪異のなぞを解くことができるかもしれない‥‥。

葦平たちをそう思わせたのは、この館にまつわる宋子文のエピソード。

宋公館は宋子文の愛人宅だった。
ここには何人もの女性がいたが、奇妙なことに女性たちは次々にいなくなった。

宋子文は女性を次から次に変えていったという。
宋子文は、その女性が他の男のものになることを許さず、殺害。
遺体は地下に塗り込めたに違いない‥‥。

葦平は金子軍曹、新聞連載の挿絵を書く清水崑(河童の漫画で有名)の3人で懐中電灯を持ち、真っ暗な地下室へ探索に入っていく‥‥。

葦平は物語の優れた語り手だった

とまあ、こんなストーリーなのだが、ラジオドラマは少年・健さんを震え上がらせずにはおかないほど、よくできていたのだろう。

健さんはこう書いている。

「この作家(葦平)の自伝的作品とされる『花と龍』を、二十数年後に僕は演じることになった。そんな運命など知るよしもなかったが、
幼心おさなごころ鷲掴わしづかみにされてこのドラマに聞き入っていた」

高倉健「少年時代」(集英社)

このラジオドラマ、恐怖に陥れたのは、少年・健さんだけではなかったらしい。

葦平は戦後に出したエッセー集の中で「怪談宋公館」について触れている。これによると、葦平は「怪談宋公館」を発表した後、「あれは本当のことか?」と何人もに聞かれたという。

「私は、無論、『ほんとうですとも。私は嘘は書きませんよ』と答える。広東にあった宋公館に、いろいろな幽霊が出没して、大いに悩まされた話をありのままに書いたのであるが、本願寺の坊さんがやってきて『幽霊供養をしますから、お立ちあい下さい』といったときには、出かける気にはならなかった」

「この作品は、ラジオで何回も放送され、演出がうまかったとみえて、気味がわるくてスイッチを切った人もあるということを聞いた。今、博多にいる金子博君は、私と同じ軍曹で、宋公館に同居していた人である」

火野葦平「怪談」(「鈍魚の舌」創元社)
このエッセーは東雅夫編の文庫「私は幽霊を見た 現代怪談実話傑作選」(メディアファクトリー)でも読める

葦平の「怪談宋公館」にハマった少年・健さんが、後年、距離的にそれほど離れていないところに住んでいた葦平の父親(玉井金五郎)を演じることになるとは、やはり何かの縁だったのだろう。
それにしても、こうなると、ドラマの音源が残っていれば、聴いてみたくなる‥‥。

火野葦平は物語の優れた語り手だった。
小説「花と龍」はいま、岩波文庫などで読むことができる。
葦平に興味を持たれた方には、ぜひ北九州・若松訪問をオススメしたい。
JR若松駅の近くには「火野葦平資料館」もある。


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