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北九州キネマ紀行【八幡編】製鉄所を舞台にした異色映画「この天の虹」


八幡製鉄所が撮影に全面協力

北九州は昭和の時代、「四大工業地帯」の一つに数えられた。
それを象徴する企業の一つが八幡製鉄所(現在は日本製鉄)。
八幡製鉄所は1901(明治34)年に操業を開始した「官営八幡製鐵所」が始まりで、鉄の生産によって日本の近代化を支えた。
関連企業も集積し、八幡のまちは大変栄えた。

その八幡製鉄所を舞台に、若い職員たちの恋愛劇を描いたのが、1958(昭和33)年公開の松竹映画「この天の虹」。

この映画は八幡製鉄所の全面的な協力のもとで撮影されていて、いったい企業のPR映画なのか、娯楽映画なのか、よくわからない点で〝異色〟の映画と言える。

監督は〝巨匠〟木下恵介監督

脚本・監督は木下恵介。
日本初の長編カラー映画「カルメン故郷に帰る」(1951年)や「二十四の瞳」(1954年)、「楢山節考」(1958年)などの作品で知られ、日本映画の巨匠の一人に数えられる。

「この天の虹」に出演しているのは、りゅう智衆ちしゅうや田中絹代(北九州市のお隣・山口県下関市出身)のほか、久我美子、高橋貞二ら。
「昭和三十三年度芸術祭参加作品」と銘打たれている。

現実とドラマが行き来する

わたしは、この映画を初めて見た時、「こんな日本映画があったのか」と驚いた。
なぜなら、八幡製鉄所の企業紹介映像(ノンフィクション)と若い男女の結婚をめぐるドラマ(フィクション)が行き来しながら、話が進むから。

撮影は八幡製鉄所が全面的に協力しているので、鉄が生産される様子がよくわかる。
ここだけを見れば、まるで企業のPR映画である。

笠智衆や高橋貞二らは製鉄所の職員。
田中絹代は笠智衆の妻、久我美子は高橋貞二が思いを寄せる製鉄所の事務職員。
つまり〝オール八幡製鉄所映画〟なのだ。

映画の公開時、「この天の虹」を特集した雑誌が出版されている(「シネ・ロマン臨時増刊」)。
当時、八幡製鉄所は「東洋一の製鉄所」と言われていて、〝巨匠〟が撮るとあって、話題性があったのだろう。

貴重な「北九州の昭和史」映像

北九州や八幡と関わりのない方から、この映画は面白いか、と聞かれれば、ウーン‥‥となってしまう。

しかし、「北九州の昭和史」の観点から言わせてもらえば、この映画は昭和30年代の八幡のまちや八幡製鉄所のカラー映像が記録された点で大変貴重。
登場人物たちが北九州や製鉄所について語る場面などもあって、興味深い。

例えば、田舎から出てきた母親(浦辺粂子)を、製鉄所の職員である息子の高橋貞二が皿倉さらくら山の山頂展望台に案内し、製鉄所を見渡すシーンがある。

皿倉山は八幡にある、標高600メートルほどの山。
山頂に登ると、八幡のまちが一望できる。
夜景も素晴らしい所。

皿倉山から見た夜景

山頂へはケーブルカーで登ることができる。
このケーブルカーは「この天の虹」が公開される前年の1957(昭和32)年に開業し、映画にはケーブルカーが山を登る様子も出てくる。
当時としては〝最新〟の映像だ。

母子は眼下に広がる風景を見ながら、息子にこんなことを言う。

母「ここから見ても製鉄所は大きかねぇ」
息子「今、戸畑に作っている工場が完成すると、世界でも指折りの大工場になるんだから」
母「私まで鼻が高かたい。田舎じゃみんなうらやましがっとるけん、お前のこと」

母親の言葉からは、当時の製鉄マンたちが、いかに〝エリート〟視されていたかが分かる。
ただ、映画の中では、職員の中にも、大学出とそうでない人の間に〝差〟があることも示される。

八幡駅や桃園アパート、高炉台公園も登場

八幡製鉄所は年に一度、「起業祭」という大きな祭りを開いていた(今でも形を変えて開かれている)。
八幡市民が楽しみにしていた行事で、ふだんは入れない工場の見学もでき、大変にぎわった。

映画では、この祭りのイベントの一つ、プールでの「水上カーニバル」の様子が出てくる。
先の「シネ・フロント」の木下監督へのインタビュー記事によると、このシーンが最もお金がかかったという(撮影のために東京からバレー団を招いたいう)。

映画にはこのほか、八幡駅(当時は国鉄)や製鉄所職員用の桃園アパート、製鉄所病院なども登場。
戦災復興事業の一環として整備され、1957(昭和32)年に開園した高炉台こうろだい公園も出てくる。
ここで主役の高橋貞二と、川津祐介(この映画がデビュー作)が語り合う。

次にご紹介する動画(約4分)は、映画「この天の虹」に関連するので、貼らせていただいた。
BGMは江利チエミが歌う「北九州音頭」(5市が合併して北九州市が誕生した1963年発表と思われる。レコードジャケットには「『テレビ西日本』選定・制作」とある)。
この映画に「北九州音頭」は使われていないが、映像は「この天の虹」からのものである。

(江利チエミと高倉健が見た映画のエピソードをこちらの記事で紹介しています)

小説にも描かれた「この天の虹」ロケ

映画「この天の虹」の八幡ロケの様子は、小説にも描かれている。
八幡生まれの芥川賞作家、村田喜代子の自伝的小説「火環ひのわ 八幡炎炎記やはたえんえんき 完結編」(2018年)である。

少女ヒナ子は、製鉄所の社員アパートがある桃園(現在の八幡東区)でロケが行われることを知り、出かける。
アパートの周辺道路は、人だかりができていた。

(高橋貞二の)相手役の女優は気品のある美貌で有名な久我美子だったから、見物人は沸き立っている」

(村田喜代子「火環 八幡炎炎記 完結編」)

見物人はスター俳優がお目当てだったが、久我美子はそこにはおらず、高橋貞二の顔もよく見えなかった。

「映画のロケというものは見ていて少しも面白くない。撮影するより待ち時間の方が長いようだ」

(同)

ヒナ子は、やがて映画界入りを志す。
ヒナ子は八幡の古書店を訪ね、新藤兼人監督のシナリオが載った本を探したりする。

「観るのが好きというわけやないよ。あたしは映画が作りたいんよ。でも映画監督には誰でもなれるわけやないから、そんなら映画のシナリオライターになりたかと」

(同)

ヒナ子は、そう話す。
そう、あのころ、八幡のまちに映画の世界を目指す少女がいた。
そうした少女を含めて、あの時代、大勢の人たちが八幡のまちで生き、働き、暮らした。

「この天の虹」で、工場はもくもくと七色の煙を吐き、それが映画のタイトルにもつながっている。
それは当時、まちの繁栄を象徴した。
しかし、それが公害問題になるのは、映画が公開されてからもう少し先のことになる。

東田第一高炉史跡広場

八幡製鉄所は1901(明治34)年につくられた官営製鉄所が始まり。最初に火入れされた溶鉱炉が「東田第一高炉」で、現在は史跡広場として整備されている。製鉄の歴史を学べるようになっている。


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