母からの呪いの言葉が母への呪いの言葉になる
息子たちが幼稚園くらいの頃に、実家に帰省中
「これ食べていい?」「あれ食べていい?」と何度か聞かれて、
「いちいち聞かなくていいよ!なんでお母さんに聞くの!?」と
キレてしまった事があった。
息子たちが聞いてくる食べ物は
ダイニングテーブルの上の菓子鉢にあるお菓子だったり、
仏壇にお供えしてあるお菓子である。
私の中では、子どもってそういう物を勝手にこっそり食べて、
見つかったら「えへへ」って笑って済ませるようなイメージだったので、
いちいち聞いてくる息子たちにイラっとしたのだ。
食べさせたくないなら大人が隠せばいいのだし。
さて、呪いの言葉である。
私が息子たちにキレた直後に母が言い放った言葉、
「あんたがそういう風に育てたんでしょ!」。
あぁ、そうか。
私が息子たちに「これはいいよ」「これはダメ」と
いちいち言っていたんだな、と思った。
当時私は、3.11後の原発の放射能汚染に神経質になったことをきっかけに、食べ物について色々調べたり添加物なども多少気にしていたので、
“そういう風な育て方”をしていたのかもしれない。
そして現在、その呪いの言葉の矢印は私から母に向いている。
私は20年以上前に鬱病を患っていた兄を自死で失っているのだが、
その事について、母に対して
「あんたがそういう風に育てたんでしょ!」と
心の中で思ってしまっているのだ。
頭では分かっているのだ。
自死の原因はひとつじゃないし、本人にしか分からないこと、本人にだって分からないこともある、と。
私があの時こうしていたら、という後悔も押し寄せているわけだが、
結局親なんじゃないか、という思いは消えない。
母からも兄が亡くなった後に懺悔めいた話を聞いたことがあり、
「お兄ちゃんかわいそう」と思い泣いたのだった。
私は黙って聞いていた。
その時に「お兄ちゃんかわいそう。お母さんひどいよ」って
声に出して母を責めていたら何か違ったんだろうか。
責めたい気持ちもあるが、親を責めたところで兄が返ってくるわけでもないし、自分の中で消化するしかない。
こうやって文章にして昇華しているとも言える。
現在、私の息子たちが健やかに育ってくれていることが、
救いであり癒しであり希望だ。