気になるあの子【愛着】
教育実習を終えて、1ヶ月1年生の学級で過ごし学んだことの1つです。
子どもは、
一人一人個性があって、
得意があって苦手があって、
今置かれている環境も違います。
そんな子どもたちの中でも私が気にしていた子が1人。
安心感を物理的な距離感で得ようとする子でした。
私の頬をツンツンしてみたり、
髪の毛を触ってみたり、
でも、
素直に自分のしたいことをお願いは出来ないんです。
拒絶されることを心配して。
子どもが自分の好奇心で、
私の頬を触ることや、
髪の毛を触ることを
私が拒絶することはありえないのに。
その子はそうやって、
私がどこまで自分のことを受け入れてくれる大人かを確かめているのです。
他の子どもたちのほとんどは、
学校にいる大人は無条件に自分を可愛いがり、受け入れてくれると思っています。
だから素直に自分の要求を伝えてくるし、
断られても、
直ぐに納得することができます。
しかし、
その子は心理的な安心感を感じにくく、
物理的な距離感で安心感を得ていました。
その部分だけアタッチメント(愛着形成)の発達が幼いのです。
子どもは自分が愛される存在だと過信していて当然だと私は思います。
それはこれまでの積み重ね、
育てる者が一身に愛を持ってその子に関わることで、
そこが安全基地になり、
社会への探索行動に安心して進んでいけるようになります。
その子はどんな理由があるのかは分かりませんが、
その
「愛がたまるコップ」
がまだ満杯ならず、
満杯にならない自分を知っているのです。
だから自ら貯めるために希望と恐れを持って大人に近づく。
だから、
私が与えられる愛は1ヶ月間注ぎ続けたつもりです。
その子がいま物理的な距離感を必要としているならそれに応じて次のステップに行くお手伝いをするまで。
手を繋いで運動場に向かったり。
褒めるとき、可愛いなと思ったとき、
受け入れている合図として、
頭を撫でたり。
ハイタッチをしたり。
今は教育現場においてもコンプライアンスが厳しいのでできるのはこの程度が精一杯。
お別れの時、その子は1番泣いていました。
悲しそうに、悔しそうに、寂しそうに。
受け入れてくれる大人を見つけたのに
また「さよなら」しないといけない現実です。
他の子とは涙にこもる気持ちの量が違いました。
いつもは元気で明るくお調子者な子なのに、
その日はずっと
暗かったです。
私の近くに来ては、
何も言わずに床にうずくまって、
心配してくれることを求めているように見えました。
子どもは自分が状況を変えることに関して無力なことを知っています。
与えられた現実を受け入れることしかできません。
その子の泣く姿を見て私も涙が止まりませんでした。
今も思い出します。
お家では自分が甘えたい時に甘えられているのだろうか、
学校で理不尽に怒られないだろうか、
大切な人に自分の気持ちを素直に伝えられるだろうか…
心配がつきません。
いまはそれだけが心残り。
という感じで、
少し私の思いを綴ってみました。
子どもは自己中心な時期を経て、
思いやりを持つことができる存在。
幼いこどもは全員
「自己中」であれ。
これは私の強い思いですね。
いったりきたりの文章よんでいただきありがとうございました。