『Who Gets What and Why マッチメイキングとマーケットデザインの新しい経済学』の書評
『Who Gets What and Why マッチメイキングとマーケットデザインの新しい経済学』(アルビン・E・ロス、櫻井祐子訳、日本経済新聞出版)についての簡単な書評です。
本書は経済学の比較的新しい分野であるマーケットデザインの社会実装について説明している本である。著者はスタンフォード大学経済学部教授でノーベル経済学賞を受賞したアルビン・E・ロス(Alvin E. Roth)氏であり、本書中にはロス氏によるマーケットデザインの応用事例が多数紹介されている。
マーケットデザインとは、ゲーム理論などの科学的手法を用いて人為的に自由市場をデザインすることで、自然に発生する市場で起こってしまう問題を解消することを目指す分野である。本書の前半部分では自然に発生する市場で起こる問題が説明されている。具体的には就活市場における選好の早期化や金融市場の取引の物理的な高速化による市場の不安定化などである。これらの問題の原因は市場に厚みがないこと、市場が混雑していること、参加者が得られる情報の不足、信頼性の欠落、個人最適と全体最適の不一致などが考えられるが、その度合いはそれぞれの問題によって異なる。例えば、公立学校の選択制度においては、学生の選好と学校の選好に基づいてマッチングが行われるため、両者から正しい選好の情報を得ることが必須条件となる。そのためには市場に対する信頼性や、参加者が正直に選好を表明しても損をしないという安全性を確実に保障できるデザインを考案しなければならない。
また本書後半部分では、研修医マッチングプログラムや公立学校の選択制度、腎臓交換プログラムなどロス氏が実際に関わったマーケットデザインの事例に基づいて、理論を実践に移す過程での障壁や問題が述べられている。マーケットデザインを実践するうえで最初の障壁となるのが、市場の運営者に市場の問題点を理解してもらえないことである。さらに、たとえ首尾よく運営者に市場の問題点と改善策が伝わったとしても、政治的な問題からマーケットデザインの導入が行えない場合もある。マーケットデザイナーは根気よく運営者を説得し、デザインの効果を長い期間をかけて証明していく必要がある。また、マーケットデザインを導入した後に発生する問題のひとつに「参加者の選好の変化」がある。ロス氏は研修医マッチングにおいて病院と研修医の1対1のマッチングに適した「受け入れ保留アルゴリズム」というデザインを導入した。このアルゴリズムは導入当初こそ上手く機能していたが、女性の医学生が増えると、男女カップルで同じ地域のプログラムに参加することを望む人が増え、マッチングの結果を拒否する場合が出てきた。この問題を受け、ロス氏は従来のマッチングプログラムに修正を加え、新しいアルゴリズムを開発した。このように、長期的な市場構造の変化に伴って、マーケットデザインも適切な形に変化させていく必要がある。世の中には問題を抱えた市場が無数に存在しているが、市場の適切な機能を精査し、うまく設計することで市場をよりよく変えていくことができる。
本書の中でロス氏が繰り返し述べているフレーズに「マーケットデザインは細部が肝心」というものがある。本書中には様々な市場が紹介されているが、そのどれをとっても同じ構造を持つものは存在しない。したがってマーケットデザインを行う際もその市場に合わせて細かく調整する必要がある。いくら理論上で正しく機能しようとも、実際にその理論を現実の市場に適用できるとは限らない。とはいえ、それは理論に意味がないと述べているわけではまったくない。むしろ、デザインされた市場にほんの些細な抜け穴(さらに言えば、抜け穴が存在するかもしれないという疑念)が存在してはいけないので、そういった根底部分を担保するために数学的手法は不可欠である。つまり、ロス氏の言う「細部が肝心」とは、市場に合わせて細かくデザインを施す必要があること、さらに、抜け穴が存在しないように綿密にデザインを施す必要があることという2つの意味が込められている。この2点を満たしつつ新たな市場をデザインすることは非常に難しいことのように思える。実際、本書でも多く触れられている通り、マーケットデザインを現実に導入するには多くの壁が存在する。しかし、その困難を乗り越え、適切なマーケットデザインを導入した暁には、多大な恩恵を社会にもたらすことができる。実際、腎臓交換プログラムでは、金銭での取引が禁止されている腎臓市場にて、患者を持たないドナーを起点に腎臓交換のサイクルを生み出すことで、従来よりもはるかに多くの腎臓移植を実現している。このようにマーケットデザインは、市場を構造から変えることで直接的に社会の厚生改善に寄与することが可能な分野なのである。
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