Forget-me-not (2)
数日後、廊下を歩いていたら、駐車場を歩いていくアストラの姿が見えた。彼女が帰るころなら、もう五時過ぎか、などと思い、腕時計をちらりと見て、再び目を上げたときに、そいつが視野に入った。アストラはまだ気付いていなかったが、そいつは、彼女の背後から、素っ頓狂なスピードで走っていた。足音を耳にしたのだろうか、アストラが振り向いた。その瞬間に、そいつがアストラに殴りかかったように見えた。
オレは咄嗟に廊下の窓を開け、窓枠を飛び越えて外に出た。アストラまでの距離は、百メートルもなかった。目の前で、男にひきずり倒されるかに見えたアストラが、次の瞬間、ひらりと男の腕を捻り、地面に転がした。全速力で走りながら、オレは驚き呆れた。男の手にアストラのバッグの肩紐が絡まっていた。アストラはその手を蹴り、バッグを取り返した。
男はじたばたと立ち上がり、逃走しようとしたから、オレは男の行く手を阻む方向に走った。ひったくりに失敗した男はすこぶる慌てていたのか、体当たりを食らわすまで、オレのことが目に入っていなかったらしい。男を地面に組み伏せ、手錠を掛けてから振り返り、
「強いじゃないか」
と言った時に気がついた。
呆然と突っ立っているアストラの唇が震え、頬が青ざめていた。あれ、怖かったのか、と思った。見事な手際で犯人をやっつけたのだから、武者震いならわかるが、怖くなるというのは、オレには理解できない。
それに、その相手というのが、顔を見れば明らかに十二、三の子供ではないか。背丈だけは大人並みだが知恵のないこと甚だしい。
警察署の駐車場でひったくりを試みるとは、何を考えていたのかと聞けば、
「スーパーの駐車場じゃねえの」
という。
確かに、警察署の隣の隣に、この町最大のスーパーがあり、その駐車場とこちらの駐車場は地面が続いている。スーパーの大売出しの日には、警察署の駐車場に停めて買い物をする住民が居て迷惑しているくらいだから、スーパーの駐車場と思われても仕方がないのかもしれない。
それにしても、建物に大きな青い文字でPOLICEと書いてあるのが見えなかったか、と聞くと、子供じみた可愛らしい声で、汚い言葉を吐いて悔しがる。一番始末の悪いケースだ。犯人は少年だし、ひったくりも未遂に終わったし、万が一にも、指名手配のかかっているような重罪犯でないことだけ確認したら、お説教を垂れた上で、帰らせることはわかりきっていた。
いずれにしろ、オレの管轄ではないから、署の正面玄関から出てきた制服警官に子供を引き渡した。子供と見るや、警官が手錠を外した。年端もいかない子供に手錠を掛けたなどと町中で騒がれるのは、まずいからだ。警官ならわかっているこれらのことを、わかっていないかも知れないアストラに、オレは小声で説明してやった。
アストラは、何も言わずに、ただ青い顔をして聞いていた。そういえば、殴られたのではなかったかと思い、顔を覗き込んだが、一見したところ、頬も口元も腫れてはいなかった。
相手が少年であろうとなかろうと、アストラが恐怖を味わったことには変わりはないが、残念ながら、犯人が処罰される可能性はかなり低い。
彼女が何を考えているのか、その凍りついた顔からは読み取れず、オレは、
「怪我したのか。どこか痛いのか」
と聞いた。
アストラの目が不安定に揺らめいて潤み、じわりと、涙を一粒生み出した。オレは仰天した。俯いて目元に手をやるアストラを抱きしめてやろうかと手を伸ばしたとき、
「そちらさんの、被害者の、調書取りますかね」
と、警官が聞いた。
「そいつを逮捕するのか」
「いやあ・・・」
「そいつの身元調べてさ、余罪があってどうしても必要になったら、明日取れば。こちらは、明日も出勤するんだからさ」
そうしますかね、と言うと、警官は、少年の手を引いて署内に消えた。
「家まで送るよ」
「でも、車・・・」
車というのは不便なもので、彼女を彼女の車で送ると、オレが自分の家に帰る手段がない。彼女をオレの車で送った後に、オレが帰宅すると、明日の朝は彼女が出勤する手段がない。だから、
「君の車をオレの車で送るよ」
と言った。
アストラは、怪訝そうな顔をした。
「君が家の中に入るのを見届けたら帰る」
震えが止まらないじゃないか、怖くなったんだろう、とは、喉まで出掛かったが言わないでおいた。しかし、こういうことがあると、次に襲われたら駄目かもしれないなどと思い始め、駐車場が怖くなるということはあり得る。考えてみると、駐車場というのは、誘拐、強盗、殺人など凶悪犯罪の舞台になることが意外に多い場所なのだ。何年か前に、駐車場で強盗に撃たれてから、車を運転できなくなったと嘆いていた被害者が居た。正確に言うと、車の運転はできるのだが、駐車場で車に乗り降りできなくなったので、結果的に車という手段を使えなくなったのだと、その被害者は俺に説明したものだ。
アストラは眉をしかめ口を尖らせた。子供が泣き出す直前に見せるような顔だった。
「ありがとう」
と背を向けて歩き出したアストラの半歩後ろを付いて行きながら、オレはちょっとした英雄気分を味わった。
この日まで、彼女がどこのどんなところに住んでいるのかも、知らなかった。三ヶ月しか滞在しないのだから、モーテルかと思いきや、郊外の一軒家を借りていた。ペンキが剥がれ古ぼけた建物なのは、恐らく、取り壊すことを前提に売りに出ている物件だ。そういうものを売れるまでの数ヶ月だけ貸し、わずかな家賃収入を得るという大家なのだろうか。
アストラはドライブウェイに車を入れ、オレは路肩に停めて、車を降りた。アストラは車を降りてドアを閉め、そのままそのドアに寄りかかって立った。近寄ると、口の端をほんの少しだけひん曲げたような強張った笑みを見せ、
「仕事に戻るの?」
と聞いた。戻ればやることはあるが、戻らなければならないわけではなかった。捜査官というのは、事件が起きると解決まで昼夜の別なく働きづめになるのだが、大きな事件を担当していないときは、何日も立て続けに九時五時勤務の時間を持て余したりする。要するに犯罪という「客」がなければ、商売上がったりだ。
「戻らなくてもいいんだ、今日は」
翡翠色の瞳が、また不安定に揺らめいた。泣くのだろうかと思ったが、それはオレの思い過ごしだった。
「考えてみたら、冷蔵庫に何もないの」
買い物に付き合えということか、と訝る間もなく、
「どこかに、ご飯食べに行く?」
と誘われた。
これを断る馬鹿はいるまい。オレは嬉しくなってにやりと笑ってしまったが、事の起こりがあれだから、喜んではいけないような気がして、慌てて笑みを噛み殺した。
「なら、オレの車で」
「飲めなくていいの?」
「いいよ」
どうせ、君を送った後、運転して帰るんだから、と思い、それとも、帰らないのかな、と図々しい期待を抱き、ほくそえんでしまいそうな顔を俯けて、何も言わなかった。
車の中で、アストラは、ぽつりぽつりと話をした。
高校の頃から生物学が好きで、そのまま大学でも生物学を学び、成績優秀で、教授に説得されて大学院まで行くことになり、就職活動をしたら、遺伝子生物学の研究所に採用され、研究助手から研究員になり、そうこうするうちに、今回のキャンペーンに駆り出された、ということだ。
極めて普通の経歴で、謎めいたところは一つもないと思った。なんで君みたいにいい女に男がいないの、とは聞けないから、遠まわしながら、三年も各地を転々とするのは大変だろう、と言った。アストラは驚いた顔をして、
「半年よ」
と答えた。よく聞いてみれば、捜査キャンペーンは三年続くが、アストラのような外部からの臨時調達要員は、居住地の近くの警察署に三ヶ月か六ヶ月行ってもらい、後はお役御免なのだそうだ。
「なんだ、そうなのか、じゃ、元の住まいはこの近く」
ええ、と言いながら、具体的にどこなのかは教えてくれなかった。
とにかく、そういうことなら、男が居ないに違いないと思ったのもオレの思い過ごしで、週末には自宅に戻って恋人と過ごしているのかもしれない。ひどくがっかりした。
オレの頭の中では、話がつながっているのだが、
「話が飛ぶけどさ」
と断り、単刀直入に、
「恋人居ないの」
と聞いた。居ると言われたら、今夜の夕食だけ一緒にして、後は関わらないと心に決めていた。オレは、女の浮気相手に使われるのは我慢できないたちだ。幸か不幸か、好きになった女には忠誠を尽くすので、相手も本気でないと困るのだ。
アストラは、苦笑した。急に本題に入ったのが、可笑しかったのだろう。
「要らないの」
(え?)
居るか居ないかを聞いたのであって、要るか要らないかを聞いたのではなかった。まあ、そういう答え方しかしてくれないのなら、仕方あるまい。
行きつけの所は同僚が居るに決まっているので避け、街からだいぶ離れた一度も言ったことのないステーキ屋に入り、すぐ後悔した。オレの親父が十九か二十歳の頃に、オレのお袋を誘ってこの店に来たら、趣味の悪い男と思われただろう、というくらいダサい。テーブルは集成材に塗ったニスがところどころ剥げている。この色合いだけは避けたいと思う安っぽい緑の椅子のクッションは、起毛が磨り減ってまばらである。古さと痛み具合以外は何もかもが不調和な食卓に出されたステーキが、妙に美味いのに仰天したが、添え物の野菜は萎れていた。
運転手のオレに遠慮したのか、彼女もワインを一杯しか飲まず、まったく素面のまま、夕食は終わった。とてもデートとは言い難い。腹を満たしに来たのだ、と思うことにして、早々に席を立った。彼女は送ってくれた礼だから自分が払うと言い張り、オレの分まで払った。出だしがこれでは、彼女とは何も起こりそうもないと、すっかり諦めの境地に達し、来た道を取って返した。ろくに言葉も交わさないうちに、彼女の家に着いた。
一応、今日は護衛だから、車から玄関までの数歩を送ってやった。扉の前に立ち、玄関の鍵を開け、振り向いたアストラは、
「ありがとう」
と言って背伸びをした。
頬というようりも口の端に口付けをしてくれた。あれ、気があるのかな、と戸惑いながら、翡翠色の目を覗き込んだ。アストラはオレの視線を避け、あらぬ方を見て微笑むと、背を向けかけた。
考えるより先に手が動いていた。彼女の頬に手を掛けて振り向かせ、唇を寄せた。アストラは抵抗しなかった。オレと扉の間に挟まれ、首を傾げて、唇を吸われるままになった。だが、彼女の両手は、だらりと垂れ下がり、オレの首や背中に手を回して夢中になるわけではない。やはり嫌なのだろうか、と思いながら、唇を離した。オレは照れ笑いを漏らしたと思う。
彼女の目がオレの顔を調べた。変な言い方だが「調べた」としか言いようがない。医者が病巣を見出そうとするかのように。
突然、居心地悪く感じた。
「ありがとう」
と言い、わずかに口の端をほころばせると、アストラはくるりと背を向け、扉を開き、中に入り、扉を閉めた。
泊めて欲しかった。でも、これほど急に、簡単に男を泊めるような人でなくて良かったとも思った。複雑な心境だ。複雑だが、嬉しい部類に入る心境だ。オレは、調子に乗ってスピード違反をしないように気をつけながら、家路に就いた。
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