Forget-me-not (4)
オレ以外の捜査官たちは、一瞬、反応しなかった。アストラが現われて署内が色めきたってから、かれこれ5週間ほど経っていたから、この間に、彼女の名前は彼らの頭の隅の方に押しやられていたのだろう。
オレは飛び上がってブリッグスに掴みかかり、アストラは生きているのか死んだのか聞いた。今思えば、皆、いささか面喰ったろう。
この時、アストラの生死はブリッグスも知らなかった。ただ、刺した男は、既に逮捕されていることと、そいつは、アストラが、今、仮住まいにしている一軒家の大家であることだけは、わかっていた。
「そんなことがあるか」
とオレは口走った。
「あるだろ。大家がテナントに勝手に恋心を抱いて、ストーカーになるなんて話は幾らでも」
とブリッグスは答えた。
だが、そんなはずはない。前にも刺されているのだから。以前に自分を指した男の家に、そうと知らずに住むなどということが、あり得るか。それとも、アストラを前に刺した男と、この大家は別人なのか。一生のうちに、二度も刺されて重傷を負うということがあり得るか。オレの頭は混乱した。
オレが取り乱したところを見られたため、オレとアストラの関係(少なくともオレのアストラに対する想い)が皆に疑われるところとなり、オレは事件を担当できなかった。しかしそれ自体は大したことではない。犯人が現行犯逮捕されているし、担当になったところで、関係者から供述を聞き取り清書するという、タイピストみたいな仕事ばかりするような事件だ。ブリッグスのほか、ハインズという若い捜査官が担当になったが、当座は、鑑識を現場に派遣して物証を集めてもらうくらいしか、することがなかった。ブリッグスは、オレの心情を察したか、何かわかったら知らせると言ってくれた。
夜になってから、命に別条はないと教えてくれた。その後も、普通なら、担当外の捜査官には知らせないようなことを、オレに報告してくれた。
ブリッグスによると、通報者は犯人自身で、通報の声は録音されているが、異様に冷静だったそうだ。
「XXX通りのXXX番地で、女を刺しました。私の名前はマイケル・マッキノンです」
と言って切ったらしい。
警官が現場に駆け付けると、高齢だが長身で体格の良い男が、よろよろ歩き回りながら、オレは何をしたんだ、と口走っていた。春先とはいえ肌寒い気候なのに、男は、寝巻きと思われる古びたシャツに、ゴムが伸びたようなパンツを履き、素足で外に居た。全身に返り血を浴びていたから、警官達は慎重に拳銃を構えて近づいた。しかし、そのような警戒は必要なかった。男の方が、勝手に昏倒してしまったからだ。
アストラは、家の中で倒れていた。
男は、アストラとは別の救急車で別の病院に搬送され、二日間を、警察の監視下で病院で過ごし、その後、拘置所に移送され、二十四時間以内に、今度は精神病院に移送されて、精神鑑定を待つ身となった。
オレは、
「なんで奴がシャバに居るんだ」
と言って怒った。それを聞いたブリッグスは、
「奴とは誰だ」
と聞いた。オレは、前にも刺されているんだよ、と言った。ブリッグスは、いささか驚き、そうだったのか、と言ったが、それ以上は追及しなかった。当事者二人の回復を待って聞けばわかることだからだ。
大事件の割に、何も動きがないまま、数日が過ぎた。アストラが前に刺されたことがあるということは、報道されなかった。一度刺されたことのある被害者が、同じ加害者に再度攻撃されたなどということは、できるだけニュースにならない方が良い。司法制度、特に懲役制度の有効性に関して、大議論となってしまうし、加害者を保釈した経緯に落ち度があれば、被害者が国を訴えることもよくある。不祥事の可能性を秘めた情報として、ブリッグスが誰にも漏らさないようにしているに違いない。
四日後、アストラが意識を回復し、事情聴取できる状態になった時、最初に会ったのは、ブリッグスとハインズだった。オレは、担当を外されているので、捜査には関われないが、ブリッグスのおかげで、事情聴取の直後に、「友人として」面会できることになっていた。
病室から出てくると、ブリッグスはハインズを先に行かせ、廊下の椅子で待っていたオレの隣に座り、
「前に刺されたなんてことは無いと言ってるぞ。お前は一体、何の話をしてるんだ」
と言った。
このとき、オレは、アストラが、以前に刺されたことがあることを、隠したがっているに違いないと解釈した。それならば、アストラの意思に逆らって、彼女が知られたくないと思っていることをブリッグスに話すことはできなかった。いずれにしろ、今回の事件の刺し傷とは全く別の古い傷跡が体中にあることは、医者からいずれ捜査陣に伝わるはずだ。オレは、
「そうか、オレ、何か聞き違いしたのかもな」
と言った。ブリッグスは、そんなの信じられるか、という顔をして、オレを見た。
「捜査に関係のあることなんだ。隠し事はするなよ。大迷惑だからな」
恐い顔でそういうブリッグスに、わかってるわかってる、と言いながら、オレは立ち上がり、ブリッグスには、もう帰れよ、と言って、アストラの病室に入った。
大量の医療機器に管でつながれ、見るからに痛々しい姿で、アストラは横たわっていたが、眠ってはいなかったらしく、オレを見て微笑んだ。
オレは何と声をかけて良いかわからず、ただベッドに近づき、点滴の針が留置されている腕や手に刺し傷がないことを確認してから、そっとその手指に触れた。
たった一度デートをして、肌を重ねたことがあるだけの、まだ始まったばかりの恋の相手だ。しかしこういう状況では、恋心よりも、憐憫を感じない方がおかしい。痛かっただろう。怖かっただろう。可哀想に。というのは、どれも言いたくても不適切な科白であるように感じるのは、なぜなのだろう。オレは、何も言えないまま、アストラの指を撫でた。
「大丈夫よ。終わったから」
とアストラは言った。その青白い顔が、青白いまま、なぜか安堵しているように見え、オレは自分の目がおかしいのかと疑い始めた。
「あなたでなくて、良かったわ」
更に意味のわからないことを言い、アストラは目を閉じた。重傷を負って弱り切った身体が睡眠を欲しているのだろうと思い、オレは、眠るまで傍に居るつもりで、ただそこに立っていたが、やがて、アストラはまた目を開いた。
「眠れよ。オレに気を遣うな」
と言うと、
「うん、もう、何日も寝てたから、あまり眠くないの」
と言う。
そこで、オレは突然、本題に入った。
「前に刺されたことがあるってのは、言いたくないのかもしれないけど、どうせ、いずれ、診断書からわかることだ。自分で言いたくないなら、オレから、担当の刑事達に言っておいてやる」
アストラは、ため息をついた。そして、こう言った。
「前に刺されたことがあるっていうのは、嘘よ。刺されたのは、今回が初めて」
オレは耳を疑った。しかし、相手は、満身創痍の、もしかしたら、まだ意識が朦朧としているかもしれない、重傷の怪我人だ。ここで言い争っても仕方がないだろうと思い、
「そうか」
と言って口をつぐんだ。
「そうよ。信じられないかもしれないけど、そうなの」
アストラはそう言い、ふうっと深いため息を吐き、目を閉じた。今度は、静かな寝息を立て始めたので、オレはしばらく後に病室を後にした。だが、その前に、カルテをめくり、担当医の名前だけは確認した。
ナースステーションに行き、身分証明を見せて担当医が今勤務中か尋ねると、まもなく、手術室から術衣を着た姿で出てきた外科医に取り次いでくれた。
廊下で立ち話だが、オレは、患者の古い傷について聞きたいことがある、と言った。
「古い傷?何の話ですか?」
と医者は言った。今回の刺し傷のほかに、傷痕があるだろうと言うと、
「死体解剖ではありませんからね、そんな小さな傷を一々探したりはしませんから」
と言う。
「いや、小さな傷ではなく、肩から胸に掛けて大きな裂傷や…」
と言いかけて、遮られた。
「だから、それは、今回の刺し傷でしょう。右肩から胸、左胸部、これは数ミリで心臓を外して背中まで貫通、胸部中央の傷は幸い胸骨に当たっていて、内臓損傷はなく、左の脇腹の裂傷も、幸い臓器まで達しておらず軽傷、左腿の二か所はかなり重傷ですが、動脈は外していましたから、一命を取り留めたんですよ」
と言いながら、医者は手ぶり身ぶりで、怪我の位置を示した。それは、アストラの裸体を見たオレが、この目で見た傷痕と、見事に一致していた。
「捜査員に診断書が渡っていませんかね」
次の手術が待っていると言い、苛立ちを見せる外科医を、それ以上引き留める理由が見当たらず、オレは不器用に礼を言い、別れた。
再び、アストラの病室に戻ってみたものの、眠っているアストラを問い詰めるわけにも行かず、もう、何もできることはないので、しばらく後、そのまま帰宅の途に就いた。
そして翌日、ブリッグスから、死体が出たと聞かされた。アストラを刺した大家の自宅を捜索していた鑑識が、壁の厚みの不揃いな部屋を発見し、壁を壊すと、白骨死体が出たというのだ。
オレは匙を投げた。オレの担当でもないこの事件は、一体何がどうしてどこへ向かって行くのか、さっぱりわからなくなった。
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