Forget-me-not (5)
その同じ日に、市内で無関係のガソリンスタンド強盗事件が起き、オレはそちらの担当となったため、もう、アストラを病室に見舞う暇もない忙しさとなった。
だから、しばらくの間、オレは、アストラの事件について、巷の一般人が知ることができる程度のことしか、知ることがなかった。
一般人が知っているアストラの事件というのは、四十年前に人を殺して自宅に遺体を隠していたマッキノンという男が、今度は警察関係者を刺して逮捕された、という事件である。アストラが、これとは別に、全身に刺し傷を負うような目に遭ったことがあることは、まったく報道されず、しかもこれは警察の緘口令の成果でもなかった。警察署内で、オレ以外には誰も、アストラが以前に刺されたことがあると信じている者はおらず、緘口令など初めから必要なかったのだ。
というわけで、この事件は、時系列的に整理すると、こういうことになる。
マイケル・マッキノンという男は、この町で生まれ、この町で育った可もなく不可もない平凡な工員だったが、親が早くに他界し、二十七歳にして、親の残した一軒家という資産を持った。しかし、現金収入は相変わらず、工員の安月給なので、つましく暮らしていたある日、パフで酒を酌み交わした女と恋仲になり、数週間同棲した後、女の浮気を疑い、かっとなって刺し殺した。同居人の居ない一軒家で、誰にも知られずに遺体を隠すことができたため、何食わぬ顔をして工員の仕事をし続けた。数少ない知人や近所の人間には、女とは喧嘩別れし、女の方が出て行ったと言ったら、誰にも疑われなかった。女の方も、若い頃に家出したきり、各地を転々としてきた流れ者で、出身地の州では捜索願が何年も前に出ていたものの、こちらの州では、女の失踪に気付いた者は居なかったらしい。
その後のある時点で、恐らく、親から遺産としてもらった一戸建てを元手として、マッキノンはもう一軒、近くに住宅を借金で購入し、そちらは賃貸ししているうちに、不動産が高騰したのでうまく転がし、借金の返済も難なく終了し、以後、家賃収入という不労所得を得るようになった。そのうち年金をもらえる年齢になり、ただ静かに、自分が殺した女の遺体と共に、暮らしてきたのである。一介の元工員が、戸建てを二軒所有し何不自由ない老後というのは、今世紀初頭から異常に不動産が高騰したこの町には、まあよくあるパターンだ。2000年よりも前に幸運にも不動産を所有していた者は、なぜか知らぬ間に億万長者になったというのが、この町の普通だからだ。
マッキノンという男は、そのまま静かに自宅で生涯を終え、死んだ後に初めて、女の遺体が壁板の裏から発見され、彼が殺人者であることが世に知られるはずだったが、そうは問屋が卸さなかった。賃貸しした一軒家のテナントに自ら突然会いに行き、重傷を負わせてしまったからだ。
精神鑑定では、何も異常は出なかったとブリッグスに聞いた。ただ、医者にも捜査陣にも理解不能なことを幾つか口走った。アストラを刺した理由について、
「忘れな草が咲いていたから」
と言ったそうだ。
アストラと面識はなかったが、どうしても女の声を黙らせなければならないと感じ、何度も刺した。そして、瀕死のアストラに、
「愛してるのよ、どうしてわからないの?」
と言われ、我に返ったという。
アストラを刺したことについてはただただ混乱しているようだが、四十年前に恋人を殺したことについては、はっきりと、悔恨と改悛の情を持っているという。
一方、アストラの方は、刺された前後のことも、男に言ったことも、何も覚えていないという。
このことを話してくれた後、ブリッグスは、
「咲いてるんだよ、本当に」
と言い、ぶるっと身震いをした。
オレは、担当させられたガソリンスタンド強盗事件が解決した日、ブリッグスの言葉を確かめるべく、アストラが借りていた家を訪れた。見慣れたドライブウェイに車を寄せた時の、腰を抜かすほどの驚きを、なんと表現したものか。
ブリッグスが言った通り、花が咲き乱れていた。舗装道路から、オレがアストラと口づけを交わした玄関口まで、ドライブウェイのコンクリートを除くありとあらゆる地面という地面を、脛か膝ほどの高さまで伸びた草の緑と、青紫の小さな花弁が埋め尽くしていた。
アストラと一夜を過ごした後のあの土曜の朝、このドライブウェイから車を出して出勤した時、こんな花は咲いていなかった。いや、オレが花には注意を払わない性格だから、見落としたのか。しかし、これほど見事に、所狭しと咲き乱れているものを、見過ごしたはずがない。
マッキノンが、「忘れな草が咲いていたから刺した」と言ったからには、オレが出勤してから、アストラが刺されるまでの数時間に、一気に繁茂し開花したということか。
ばかだと思われるかもしれないが、オレは車から降りることを躊躇った。拳銃を携帯している刑事が、花に恐れをなして退散するのか、と自嘲しながら、ドライブウェイの前の路上に停めた車の中で、五分ほど、花に覆われたフロントヤードを茫然と見つめていた。
それから、勇気を出し、車のドアを開け、ドライブウェイに降り立った。
春の陽を浴びて、薄い青紫の可憐な花弁が、きらきらと輝いていた。
私を忘れないで
私を忘れないで
私を忘れないで
と、まるで女の囁きが、一つ一つの小花から、その微かな甘い芳香と共に立ち上るようだった。
オレは、花を踏みつけないように注意しながら、フロントヤードから家の周りを巻いてバックヤードにつながる煉瓦敷きの小路を辿った。バックヤードへの侵入者を防ぐための小さな門扉は、防犯とは名ばかりで、内側に外から手を伸ばして取っ手を持ち上げれば、若干のコツが居るが、難なく開くようになっている。オレの目線より低い門扉の取っ手を操作しながら、既に、バックヤードの光景は、視野にしっかりと入っていた。
隅から隅まで、青紫の花に覆われている。
オレは、門扉の中に数歩進み、バックヤードの全体を見渡せる位置まで来て止まった。
私を忘れないで
私を忘れないで
私を忘れないで
そう囁きかける草いきれに、息もできなくなりそうだった。もう、これ以上、入り込む必要はなかった。入り込めば、忘れな草を沢山踏みつけることになる。それはできない相談だと、自分にも説明のつかない恐怖心が、警報を鳴らしていた。
オレは迷信深くも信心深くもない方だ。それでも、女の怨念のこもったこの裏庭に、花を踏んで立ち入れる者は、この世には居ないと確信した。
踵を返し、花を踏まずに車に戻り、後を振り返らずに発進した。
これ以上のことを確かめる必要があるのか、と思いながらも、通り三本離れた殺人犯の自宅の方も見に行った。そちらは、その通りに侵入する角を曲がった瞬間から、番地を確かめなくとも、その家がわかった。フロントヤードを埋め尽くし、丈高く伸びた忘れな草が、猛り狂ったように道路まではみ出し、咲き誇っていたからだ。
オレは徐行運転でその家の前を通り過ぎ、その足で病院に向かった。
二週間ほど前に一度訪れたアストラの病室は、器械の数が減り、広くなったように見えた。ベッドの傍らに、初老の女性が腰かけていた。
オレを見ると、アストラはにっこり微笑んだ。オレは、見知らぬ女性に会釈をした。
「母よ。こちらは、職場で知り合った刑事さん」
こういう紹介で、オレ達が、ある意味、深い仲になっていることを察したのか、あるいは、病室を出て手足を伸ばす潮時だと思ったのか、アストラの母親は、通り一遍の挨拶をした後、飲み物を買ってくると言い、席を外した。
オレは、アストラの傍に歩み寄り、先日よりも血の気の戻った頬に触れた。
聞きたいことが沢山あったが、一体何を最初に聞いたらよいのか、わからない。取り調べなら幾らでもしたことがあるのに、この時ばかりは、言葉に詰まった。すると、アストラの方から、とつとつと語り出した。
何から話したらいいかしら。
私ね、物心ついた時から、ある種のナイフが怖かったことだけは覚えているの。胸にナイフが刺さって、ぎゅっと息が苦しくなるような、そんな感覚を覚えていたの。それは、記憶と言うべきなのか、白昼夢というべきなのか、よくわからなかったけれど。
不思議なことに、そのナイフと同じようなナイフは嫌いなんだけど、それより大きなナイフや小さなナイフは平気なのよ。だから、中華包丁で骨付き肉を叩き切ることもできるし、フルーツナイフも使えるし、カッターナイフやかみそりも平気なの。でも、切っ先の尖った刃渡りの長い肉切り包丁だけは、どうしても苦手なの。
二十歳を過ぎた頃にね、身体に傷痕が現れ始めたの。はじめは、どこかに擦り付けてみみずばれになったのかな、というくらいだったけれど、段々、濃くはっきりしてきて、もう、ミニスカートも水着も着られなくなってしまった。学生時代には親元を離れて大学の近くに住んでいたから、こんな傷痕を親に見せたら、私がキャンパスで刺されたのに、どうにかして親に隠し通したとでも、親は思うでしょ。そんな風に誤解されたら、大学を訴えるとか言い出して、大騒ぎになることはわかり切っていたから、親に絶対に隠さなければならないと思って、とにかく、できるだけ親から離れたところに就職したの。私、ウェスタン・オーストラリアの出身なのよ。なのに、ニューサウスウェールズで就職したのは、そういうわけ。そして、一度も里帰りしなかった。電話やメールはしたけどね。親はなんだか気を悪くしてしまって、段々疎遠になってね。
一番困ったのは、ボーイフレンドよね。だって、当然、身体を見られるでしょ。あなたもそうだけど、見れば誰でも、どうしたんだ、と聞くでしょ。それにまともな答を言えないと、僕に話せないのか、と言われるし、刺されたことがあると言えば、まだそいつに追われているのか、そいつは刑務所に入っているのか、どこで、刑期は何年、とか、果てしなく追及されるから。特に、私のことを本当に好きになってくれた人ほどね、知りたがるでしょ。嘘をつき続けるのも心苦しいし、本当のことを言っても誰も信じてくれないし。
だから、もう、私はワンナイトスタンドしかしないと決めたの。一夜限りの仲なら、別に、傷だらけでも、それなりに愉しめればどこからも文句は来ないでしょ。色々聞かれても、もう、処理済みだから、終わったことだから、で通せばいいし。それで納得しない人は、こちらからお別れすれば良かったし。
そんなこんなで、行きずりの恋人を何人か持ったけれど、そのうちに、なんだか、一度は男に刺されないと、私の人生は始まらないんだな、という妙な確信を持つようになったのよね。誰かと出会って、寝る度に、この人が刺してくれるのかな、と思って、恐れるような、期待するような・・・本当に変よね。でも、それ以外の関係の持ち方がもう、わからなかったの。説明できないわ。なんて言ったらいいかしら。私は、ずっと、刺されることを待っていたの。そのために生まれてきたような気がしていたの。
この町に赴任することが決まった時にね、町の名前はそれまで知らなかったけど、動物園の名前は知っていたのよ。行ったことがないのに、行ったことがあるな、と思ったの。これも、自分に説明できない感覚だった。今は、なんとなく辻褄が合ったような気がするけど。
だから今は、ほっとしているのよ。あなたが、私を刺す人でなくて良かったわ。これから、やっと、本当の、私の人生が始まると思う。
このように話し終えると、アストラは、
「傷を見る?」
と言い、身体を起こして、病衣の裾を捲り、左の腿を露出した。そこに走る二本の切り傷は、抜糸痕がまだ真新しく赤みを帯びて生々しかった。しかし、オレがあの夜に見た白い傷痕は、どこにも無かった。
「寸分たがわず、古傷をなぞるように切られたのか、あるいは、切られた後に、古傷の方が跡形もなく消えたのか、真相は私にもわからないわね」
アストラは、脚を病衣と寝具に仕舞い、再び横になった。
「見せないけど、他の箇所も同じ。新しい傷と抜糸痕以外の傷は、もう無いのよ」
アストラと、オレは無言で見つめ合った。
「君は・・・その・・・殺された女の、生まれ変わりなのか」
アストラは、無言でオレを見つめ返し、やがて、言った。
「そう解釈するのが妥当と言えるでしょうね」
そう言うアストラは、この状況を面白がっているような顔をした。
「私も、一応、科学者だから、科学的に説明のつかないことは、認めたくないのよ。でも、生まれ変わりと考えると、すべての辻褄が合うということには、反論の余地がないという結論になるの」
まるで研究報告のような物言いでそう言い、アストラはオレに微笑みかけた。
「あなたは、生まれ変わりとか、信じるの?」
正直に、
「いや、全然。というか、少なくとも、これまでは全然」
と答えた。
「やっぱり、そうよねえ」
足音がしたので、戸口を振り返ると、アストラの母親が、紙コップを三つ持って立っていた。
「お好みが分らなかったから、適当に、ロングブラック、ラテ、カプチーノだけど、お好きなのがあるかしら」
その口調から、さっぱりとした気さくな人だという印象を持った。オレは、
「すみません、いや、レディーファーストで」
と言い、二人の女性に好きなものを取ってもらい、残ったロングブラックをもらった。
「娘から聞いたかもしれないけど、もう十五年ぶりくらいなんですよ、娘の顔を見るの。ずっと帰って来てくれなかったから」
あまり恨めしそうでもなく、アストラの母はそう言い、愛おしそうに娘の髪を撫でた。
「これからしばらくは家に居るって言ったでしょ」
そうアストラが答えたので、退院できる状態になったら、アストラは大陸の反対側の、ウェスタン・オーストラリア州に帰ってしまうのだということを、オレはこのとき知った。オレの内心の動揺を嗅ぎつけたのか、アストラはオレの顔を伺うようにじっと見た。そして、
「良かったら、遊びに来る?刑事さんでも年休は取れるんでしょ?」
と聞いた。
「うん、取れるよ」
と答えながら、オレは、アストラが、ワンナイトスタンドでもいいつもりで始めたこの関係を、一体どうしたら続けることができるのだろうか、と訝っていた。
*******
それから半年の月日が流れた。
マッキノンという男は、精神鑑定の結果、責任能力はあると判定され、四十年前の殺人事件も、アストラの傷害事件も、事実関係を争わず有罪を認めた。有罪無罪を争う事件ではなくなり改悛の情も見られるので、最低二十年間仮釈放なしの終身刑が確定した。これは一種の有期刑だが、シャバに出てこられるのは八十七歳だから、結局、終身刑のようなものだ。
前に刺されたことがあるとオレが口走った件は、オレもアストラも決して誰にも説明しなかったので、ブリッグスには執拗に不審がられながらも、うやむやになった。
半年の間に、休暇を取ろうと思えば取れたが、オレはまだ、ウェスタン・オーストラリアのアストラの実家を訪ねてはいない。電話番号やメールアドレスを交換したから、行こうと思えば行けるが、アストラは、気乗りがしないらしく、オレを招かない。最後に来たメールには、「やっと自分の人生を始められることになったので、過去とは切り離して仕切り直したい」という、謎めいたことが書いてあった。
いや、謎めいていないか。これははっきりと、別れたいという意思表示だろう。
オレは、期せずして、類稀な転生例の唯一の目撃者になってしまったのかもしれず、目撃された当の本人は、目撃者の居ない別天地で、新しい人生を一から始めることを望んでいるということらしい。
オレは、自分からは動かないことに決めた。もし、いつの日か、アストラの方がオレと再会したいと思うなら、居場所も連絡先も知っているのだから、連絡してくるだろう。それまで、あまり期待せずに待とうという気持ちに、今はなっている。
もしかしたら、今生で再会することは、もう、無いのかもしれないと思う。そうだとしても、再会があり得るのかもしれないとも思う。
つまり、来生で。
そうなることが、どこかオレ達の知らないところで 決まっているのならば。
結果的に、たった一夜限りの関係となってしまったが、アストラはオレにとって忘れ得ぬ人となった。アストラの方も、オレを忘れないでいてくれるだろうか。そう思いたい。
Forget me not.
オレを、忘れないでくれ。
(完)
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