Forget-me-not (3)

 金曜日が待ち遠しかった。祈るような気持ちというのは、こういうことをいう。何を祈るかと言えば、もちろん、金曜日までに凶悪事件が起こりませんように、だ。何も約束したわけではないが、ああいう別れ方をした後の金曜日に、何か起こることを期待しない男は居ない。

 祈りは叶ったと言うべきか、叶わなかったと言うべきか。

 金曜日、昼過ぎに、鑑識の前を通った時には、会い損ねた。電話で話しても良さそうなものだが、オレは、こういうときに電話で女と会う約束を取り付けることをしない。頑固に古風なのだ。電話に頼るのは、会えるか会えないかわからないときめきを、無碍に捨てるようなものだと思う。待ち伏せの方が、浪漫があるではないか。

 浪漫はただでは手に入らない。待ち伏せは寒いと相場が決まっている。

 ときめきか苛立ちかわからなくなるまで、彼女の車が目に入る位置に蹲って待った。まるで張り込みである。我ながら、子供じみたことをしていると自嘲する。こういう日に限って残業することにしたのか、鑑識の窓から漏れる明かりが夕闇に浮かび始めた。

 日がとっぷり暮れ、同僚の目に留まることを気にする必要がなくなった頃、オレは立ち上がり、暖を取るために足踏みをした。足元に落とした目線を上げると、鑑識の明かりは消えていた。

 夜に包まれた駐車場に怯えるように、何度か後ろを振り返りながら、アストラは車に向かって歩いた。オレの居た場所からして、彼女の背後から歩み寄る位置関係になった。脅かさないように、わざと足音を立てて近づいたが、アストラは一度振り向き、暗がりでオレの顔を識別しないまま、小走りになった。

「アストラ、オレだよ」

足を止めたアストラに追いつくと、いきなり、

「遅くなってごめんなさい」

と言われた。オレの怪訝そうな顔を見て、

「きっと待っていると思ったから」

と言う。それは、待っていてほしかったという意味だと解釈し、オレはすっかり上機嫌になった。

 前回の失敗を繰り返さないように、隣町の少し高級な料理店に連れて行こうと思っていた。そう彼女に言うと、行かない、と言われた。

「うちに来て。ワインも食べるものもあるから。運転しなくていい方がいいでしょ」

 これは、泊まって行けということだった。話が進むのが早すぎる。面食らっているうちに、彼女は自分の車に乗り込み、エンジンを掛けた。ミラーで斜め後ろのオレをちらりと見たから、意味もなく片手を振り、オレも自分の車の方に行った。ふと、からかわれているのではないか、この間に彼女は車を発進させて走り去るのではないかと思い、彼女の車の方を見やれば、エンジンを掛けたまま、待っていた。

 まもなくオレたちは、彼女の車を先頭に立て、郊外のアストラの家に向かった。

 アストラは、急ぐ風でもなく、ワインをオレに渡し、冷蔵庫から料理を出し、電子レンジで温めた。

 小ぶりな食卓の二つきりの椅子の一つに掛け、ワインオープナーを使いながら、オレは彼女の仮住まいを観察した。台所の棚はすべて作りつけで、木の痛みが目立った。居間の窓にかかるカーテンは一箇所に破れがあり、ひどく日焼けしていた。床のレノリウムには、尖ったものを引きずって付けた傷があり、敷き込みのカーペットは、長年踏みつけられ掃除機を掛けられた年代物で、あちこち変色し、もう起毛がない。部屋の周囲の白壁はところどころペンキが剥がれ、テレビの跡と思われる黒ずみが残っていた。テレビはというと、居間にはなかった。居間にあるのは、中古の家具屋で買ったか、元から家に付いていたのか知らないが、クッションのへこたれかけたソファと、コーヒーテーブルだけだ。

 気取らない女、無頓着な女、きれい好きではない女、あるいは何かに疲れている女。様々な形容詞を思い浮かべながら、アストラの方に目線をやった。目が合って反射的に微笑みかけたが、アストラは、じっとオレを見返した。笑みのない、かと言って冷たいわけでもない無表情な顔に、何かの陰りがあると思ったのは思い過ごしだったのか。

「グラス、出すわね」

 何事もなかったようにそう言うと、アストラは背を向け、不揃いなワイングラスを二脚、棚から出した。

「何もかも、ありあわせで」

 殊更、悪びれるわけでもなく、グラスを差し出すアストラの表情には、もう先ほどの陰りは見られなかった。

 オレは、少なからず、狐につままれた思いになった。地方都市の警察署に突然現れた女が、何を理由にオレを招くことにしたのか、これは恋の始まりなのか、一夜限りの遊びなのか、それとも何か全く別の計略なのか。さっぱりわからないまま、ワインとチーズと、瓶から皿に出したオリーブの漬物と暖め返しの残り物の夕食が始まった。鶏肉のトマトシチューのような残り物は、どうやら彼女の手作りらしい。同じく残り物の芋にかけて食べると、見掛けはともかく、味は良かった。

「美味い」

「そう?良かった」

 アストラは黙々と食べ物を噛み下し、ワイングラスを時々傾け、グラスが空けば何も言わずに自分で注ぎ足した。会話のきっかけがなく途方に暮れ、ボトルを取り上げて、

「オレが注いであげるよ」

と言った。

「ありがとう」

と言うアストラの方は、ワイングラスにワインが流れ込むのを無表情に眺め、グラスがいっぱいになったところで、手に持って一口飲み、そして、また、食べ物を口に運んだ。

 しなを作らない女、媚を売らない女、食欲は人並みな女、無口な女、と形容詞だけが無意味に増えて行く。彼女の意図はさっぱりわからないまま、腹は満ちていた。

 手持ち無沙汰が手伝ったのか、二人で早々と空けてしまったワインのボトルを台所の隅の床に置き、彼女は棚からもう一本取り出し、何も言わず、オレに差し出した。相変わらず笑みのない顔は決して冷たくはなく、何かに怒っているわけでもない。

 酔い潰れたいわけでもなさそうだが、大丈夫だろうかと思い、

「飲める方なの?」

と聞くと、

「ザル」

という簡潔な答が返ってきた。まあ、それなら、と思い、二本目のワインを開けた。

 アストラとワインを飲むのは退屈だった。何も会話がないからだ。しかし気詰まりではなかった。彼女がオレに気を遣っていないのは明らかだった。

 酔いたくはなかった。だから、二本目のワインの一杯目を飲んだところで、彼女の頬に手を伸ばした。耳の脇の髪を掻き揚げながら唇を寄せると、アストラはまったく嫌がらず、やがてオレ達は立ち上がり、寝室に向かった。 

 女の方がこれほどたやすく受け入れてくれると、一夜限りの関係なのかと思うものだ。そういう意味で、オレはこの状況に冷め始めた。それでも寝室に入って行くのは、倫理観のかけらもないようだが、ここで踵を返して帰るのは女に対して失礼だという、ある種の礼節を重んじているのである。それに、一夜限りの関係から何かが始まるかもしれないとも期待していた。

 恋に落ちたことは前にもある。これは恋に落ちたとはいい難い、と思い、自分が何を感じて何をしているのか、よくわからなくなった。わからないながらも手足は欲望に動かされ、アストラの服を脱がせて行った。アストラは積極的に自分で脱ぎもしないが、抵抗もしなかった。寝室の闇の中では、彼女の身体がよく見えないので、ベッドサイドランプを点けようとすると、アストラはオレの手を取って止めさせた。

 それが唯一の抵抗だった。明るいところで裸を眺められるのは恥ずかしいのだろうと勝手に解釈し、オレは電気を点けるのは止めた。

 だから、そのことには、事が済んで洗面所を使い、ベッドに戻るまで気がつかなかった。寝室は相変わらず暗かったが、通りに面した窓から月明かりが差し、部屋に不規則な陰影を作っていた。

 先にまどろんでいたアストラの隣に横たわり、抱き寄せた拍子に、肩から胸にかけて、彼女の皮膚が一筋、白く光ったのを見た。オレは首をあげ、その光の線をもう一度見た。アストラは目を覚ましかけた。

 オレが、電灯を点けたから、アストラは眩しそうに目を背けた。

 驚いたからなのか、憤ったからなのか、オレは礼儀を忘れ、掛け布団をはねのけていた。右肩から右の胸まで一筋、左の乳房の下部に一つ、左右の乳房の間に一筋、左の脇腹に一筋、左の腿に二か所、長さや形の様々な傷跡があった。その大半は、一筋の線様だったが、左胸と腿の傷は不定形にひきつれ、傷の深さを物語っていた。

 刃物による切り傷や刺し傷だと察した。明りに目が慣れたアストラは、幾分恨めしげにオレを見た。

「刺されたのか」

わかりきっていることを、聞いた。

「うん」

「誰に」

「男に」

 この一言でなにもかも理解せよとでも言うように、アストラは後は何も言わない。オレは二の句が継げなくなった。しばらくして、諦めたように溜息を一つつき、アストラは、

「ずっと見てるの?」

と言った。それで、オレは慌てて布団を引き寄せ、アストラの裸体を覆い、自分も横になった。アストラはオレに背を向けるように寝返りを打った。再び彼女を抱きよせようとして、背中の左中央にも、刺し傷があるのを知った。傷の位置からして、前から刺されて貫通したものかもしれない。そんなことを分析する自分は、人格異常なのではないかと思った。

「誰にやられた。こんな・・・」

 後が続かなかった。こんなにひどい傷、と言ったら、灯りを嫌ったアストラは傷つくだろうと思ったからだ。こういう時には何も見なかったふりをするべきなのだと思ったが、それは手遅れも甚だしかった。

 実際、ひどい傷だった。よく死ななかったものだと思うくらいだ。しかし、問い詰めるようなことを言ったのは無神経だったと反省し、オレはもう何も聞くまいと決め、彼女を後ろから抱きすくめた。眠ってしまったのかと思ったころ、アストラはオレの胸の中で窮屈そうに寝返りを打ち、オレの目をのぞきこんだ。

「あなたが、そうなの?」

 聞き違えたのかと思い、オレは聞き返した。なんでもない、と言い、アストラは顔をオレの胸の中にうずめた。

 

 護身術を心得ているのは、そういう事情だったのか。年端もいかない少年にバッグを取られそうになった時、急に怯えたのはそういうわけだったのか。そんなことを考えて、アストラが寝息を立て始めた後も、長い間、オレは眠れなかった。

 

 また会ってくれるの、というのは、女のセリフだろうか。そんなことをちらりと思いながら、翌朝、オレは、また会ってくれるのか、アストラに聞いた。

「会わないつもりだったの?」

と聞き返され、面喰った。アストラの目がほんのわずか笑っていたから、当り前のことを聞くな、と言いたいらしい。それで安心し、オレはオレの車に乗り、出勤した。この土曜は、当番だったからだ。アストラは、月曜から金曜の勤務なので、俺を見送って自宅に残った。


 捜査官でなければ、こういう発想はしないものなのかもしれない。オレは捜査官だからか、あるいは性格が歪んでいるのか知らないが、アストラを刺した男を知りたかった。いや、むしろ、そいつが、相応の罰を受けたのかどうかを確かめたかった。

 あの傷からして、警察沙汰にならなかったはずはないので、彼女が通報せずに泣き寝入りし、男から逃げ続けているという可能性はないと思ってよい。しかし、男の方が逮捕されずに逃げ続けていたり、逮捕後の立件が下手で軽い刑期で出所していたり、ということはあり得る。アストラは特に誰か特定の男の影に怯えているわけでもないようだから、取り越し苦労かとも思ったのだが、やはり男が現在、収監されていることを確かめておきたかった。被害者の名前がわかっているのだから、調べるのは簡単だ。

 

 簡単なはずだった。

 ところが、それらしい事件の記録が、どこを探しても無かった。全国のデータベースを検索しても無いのだから、彼女が事件後に氏名を変えたか、事件が国外で起きたかのいずれかだ。それならば、アストラからもう少し詳細を聞き出さない限り、これ以上検索しても仕方がない。

 と思ったとき、ブリッグスが駆け込んできた。オレに、というわけではなく、部屋中の捜査官全員に向かって、ブリッグスは言った。

「アストラが刺された」

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