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時には、意味なんかすっとばしてみて

「アナログ世代とデジタル世代の違いで1カ所感じるのは、歌詞を聴きすぎ。僕らは音で全部聴いてた。意味なんかどうでも良かった。ロックンロールはものすごく僕を元気にしてくれたけど、元気づけるような歌詞なんか1つもないんだよ。関係ないんだそんなこと。でもデジタルになると、情報としてきれいに入ってきちゃって、歌詞を文字で追いすぎてるような気が、ちょっとだけする」

 一昨日くらいに見つけた、クロマニヨンズ・甲本ヒロトさんのことば。

 何でもかんでも世代で簡単に一括りはできないけど、「意味を追いすぎる/求めすぎる」という感覚はとてもわかる気がする。

 自分なんかは音楽は入口はMVかメロディだけど、聴き込むものについては(↑過去日記みたく)歌詞の意味をついつい考えてしまいがち。それ以外のことであっても、基本は物事の意味を考えすぎちゃって動きが鈍るタイプだったりして、「あ、おれのことだ!」と思ったほど。

意味なんてのはあればベターかもしれないけど、案外なければないで、事が起こったときにうまくまわっていく。というか、うまくまわしていくように人は努めるものだ。

 スマホを通してすぐにインターネット探検隊になり、意味をトレジャーできちゃう時代のせいで、自分の経験と直感でなく、他人のそれらを借りて(わかったつもりになって)行動の選択をしてまうことが増えた。また、四方八方からやってくる意味の雪崩に耐え切れず、選びきれずに自滅しちゃうっていう人もいるんじゃないだろうか。

 ふと「妖怪」という存在について考えてみた。

 ゲゲゲや図鑑で紹介されるすべての妖怪が、その生まれる背景ですべてに意味があったようには思えない。古人のノリで”なんとなく”名づけられたような妖怪だったいたはずだ(だって考えてみたら、僕らだって意味もなく適当なギャグやあだ名をつけたりするし)。

 そのもしかしたら意味がないはずのことの意味を追い続け、悩み苦しんでしまうとしたら(妖怪研究をしててそんなことあるのか知らんけど)、無駄なのだ。というか勿体ないし、いったん「意味がない場合もある」という意味を覚えたほうがいい。

 世の中のすべてのことには意図や思想があるわけじゃなく、意味のないことも多産されてきて、むしろその意味のないことに救われてきた人たちもいれば、それにより支えられてきた文化だったあったんじゃないかさえ思う。

 だから、これは甲本ヒロトさんが指摘する”デジタル世代”に対して、あるいは、意味を考えすぎる自分に対して言えることは、こちら。

「まあ、意味を考えることはそれはそれで探求心あっておもろいではある(作者の意図がないことでも読み取り方をずらすことで新たな解釈が見つかることもある)けど、時には、意味をすっとばして、物事に向き合ってぶちあたってみるのもいいよね」

 考えすぎちゃって頭がパンクしそうなやつは、走らせたりしながらエネルギーの逃げ場をつくってあげて、頭だけじゃなく身体で考えることも超絶大事ってことを覚えさせちゃったほうがいい。

 意味のなさ、を受け入れられるようになったところで、身から剥がれ落ちていくモヤモヤな憑き物ってたくさんあると思うから。


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