くっすん佳香
ちょっと前の話。
ふらりと入った森美術館の「六本木クロッシング2022展:往来オーライ!」
展示を回っていくと、真っ赤にそまったパネルに
「私が決めた私の名前を声枯れるまで大きな声で叫ぼう」
とそう記されて、イヤホンが飾ってある。
私は何の予備知識もなしにそのイヤホンを取って暗室に入ると、立ったまま流れている映像を一人見ていた。
生まれた性と心の性に悩み、心の性に合わせて親から授かった名前を変えた二人のそれぞれの経緯。
そして二人とも最後には自分で決めた自分の名前を何度も何度も叫ぶという映像だった。
私は何度も何度も叫ぶ、その力強い声を聴きながら、隠れるようにその暗室を抜け出した。
私も二人と同じ事象を経験をしているはずなのに、自分には何故か自分の名前をあんな風に力強く叫べる気が1ミリもしなかった。
ぼんやりと思い出したのは、宮川が好きな町田康のくっすん大黒のことだった。捨てても捨てても戻ってくる大黒の置物の話。読んだときはただ妙な話だな、この行間を読むだけの能力は俺にはないと思っただけだった。
ペットの名前、子供の名前など、どんな名前がいいかな?と一度は考えた経験がある人ってのは結構いる気がする。
しかし、自分の名前がこんな風だったら良かったのにと考えた事はあっても、実際にその名前に変える人はほとんどいないと思う。
ことトランスジェンダー界隈においては、これが逆転する。
ほとんどのトランスジェンダーは元の名前ではなく、新しい名前に変える経験をする。
自分の心の性に合わせた名前に変更しなければ、生活しづらいからだ。
FTMであれば、名前を男っぽく、もしくは中性的でどちらでも対応できそうな名前に変える人が多い。
例にもれず、私も名前を変えた。
例えば、佳香(よしか)から佳樹(よしき)になった。
名前を決める作業は愉快なものだったが、新しい名前を得た時は希望みたいな高揚感より、過去の名前を踏みつけてゴミ箱に殴り捨ててやったみたいな暴力的な爽快感の方がよっぽど強かった。
元の名前を知る全ての人々から逃げ出したかった。
全部捨てて、一から男として始まりからやり直したいと願っていた。
佳香という名前と一緒に、それを知る人との関係を断ち切る事を望んでいたが、実際には一部の友達と家族との縁を切る事は出来なかった。
何とか、薄っすらとした関係性の人々は佳香と共に断絶され、今に至る。
しかし佳香を捨てて10年。
そんなに簡単に過去を捨てる事って出来ないんだな。
と当たり前のような事をやってみないと分からないタイプなのだ。
過去を捨てる事で、自分が窮屈になっていると最近やっと分かるようになった。
いや、分かっていたけど認めたくなかったのだと思う。
幼稚園、小学校、中学校、高校で関係していた人々を頼る事は出来ないし。
(まぁ私の無精さを考えると、繋がっていれたか定かではないが。)
新しい人と関係を築く時に、佳香だった事実を伏せたり、偽の過去を偽造してしまうのは、嘘をつくのがあまり上手くない私にはストレスでもある。
ピーターパンの影みたいに取り外しが出来たらいいのにと思いながら、佳香はぴったり佳樹の影みたいについて回る。
それはそうだ。私の過去なのだから。
いつもはそんなに存在を感じないのに、時々、妙に伸びた影みたいに不気味なまでにその存在を主張してくる。
私が決めた名前を心のかぎり叫んでみよう!
すると私の場合は捨てたはずの名前の影が伸びる。
過去に、ズタズタに切り刻んでゴミ箱に捨てたかったはずなのに。
あんな風に力強く叫ぶ為には、捨てた名前を拾うところから始めなければならないのだと思うと、私はやっぱり暗室をそそくさと逃げ出すしか能がない。
そして、これからのFTM・Xジェンダーの方々がこんな風に逃げ出す必要がない世界が来た頃に、私もこの影を受け入れる事ができるのだろうかと思ったりする。
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