##NAME##に入力される名前──児玉雨子『##NAME##』書評
1600円+税、河出書房新社、2023年
先月上旬、未成年の出演者がいる可能性があるとして埼玉県営プールで予定されていた水着撮影会が中止になり、主に表現の自由の観点から話題になった。その数日後、本日19日に受賞作が決定する第169回芥川賞の候補作が発表された。何の偶然か、そのひとつがジュニアアイドルを主題としたこの作品だ。
帯の表面には、次の通り簡単なあらすじが付されている。
最初このあらすじを見た時の率直な感想は、「なんか妙な取り合わせだな」だった。何せジュニアアイドルと夢小説、中身の予想がまるでつかない。しかしこの二つの要素が組み合わさってこそ、この物語の輪郭が浮かび上がる。
物語は、主人公である石田雪那(せつな)がジュニアアイドル「石田せつな」として活動していた小・中学生時代と、芸能活動を辞めた後の大学生時代を往復しながら展開する。中学時代から彼女は『両刃のアレックス』という少年漫画に熱中し、まだ二次創作の主戦場がPixivやハーメルンなどの投稿サイトではなかった時代、とある個人サイトの夢小説に心を奪われる。
夢小説とは、主人公が特定の誰かではなく、読者が自己投影できる分身として書かれる小説のことで、現在では漫画やゲームなどのキャラクターと「夢主」(夢小説の主人公は夢主と呼ばれる)の恋愛を描いた二次創作が多い。そして個人サイト時代は、名前を入力することで、この主人公の名前が、閲覧者が入力したものに置き換わって表示されるというシステムを埋め込んだものも多かったようだ。この機能により、読者はより強く感情移入して夢小説を読むことができる。
雪那が熱中した夢小説もこの形式を取っており、『両刃のアレックス』の主人公、アレックスと、夢主の淡い関係が描かれている。しかし雪那は自身の名前を入力せず読み進め、名前を与えられない主人公の名前は##NAME##と表示される。
名前を入力しない理由として雪那は、自分が作品世界に馴染めず違和感があると述べている。しかしそんな彼女は、現実でも名前に苦しめられることとなる。
大学生になり、この頃にはとっくに事務所も辞めていた雪那は、アルバイトの家庭教師先で、保護者から自身の芸能活動時代の写真を突きつけられて契約解除を申し入れられる。本名ほぼそのままの芸名は、インターネットで検索すれば簡単に表示されるのだ。また同じく彼女の過去を知った大学の同級生には、その過去を「闇」と断じられ、告発を強く勧められる。
保護者も大学の同級生も、決して雪那自身を責めることはなく、あくまでも被害者として扱う。何か事情があったのだろう、大人に搾取されたのだろう、と。しかし、その言動には、雪那そのものを性的でアングラなもの、すなわち「闇」とし、自分たちと違う世界の存在として扱うような視線が見え隠れする。
この「闇」という言葉に、雪那は次のような感想を抱く。
雪那自身は決して未成年への性的搾取に無頓着でない訳ではない。怒りや惨めさといった感情を抱くこともある。だがその感情は彼女の、彼女たちのためのものであり、決して外野が好奇心や義憤で軽々しく消費していいものではない。
センセーショナルな社会問題は確かに注目を集める。それについて何らかの自分の意見を表明しなければならないという気分にさせる。だが、そこで真っ先に考慮すべきは、問題そのものよりも当事者の感情なのではないか。問題意識と自分なりの意見を持つことは間違いなく重要だが、それを急ぐあまりに安易に結論を出して、当事者の心を害しては本末転倒だ。
名前という簡単には自身と切り離せないものは、時として呪いになる。そんな雪那の呪いを解いたのは、ジュニアアイドル時代、同じ事務所の友達だった美砂乃からの「ゆき」という呼び名だった。彼女との思い出を、雪那は次のように語る。
雪那のことを先の保護者や同級生と同様「かわいそうな被害者」という扱いで読んでいた僕は、雪那のこの感情に辿り着いた時、フィクションの中とはいえ反省せざるを得なかった。傍から見れば、雪那や美砂乃は、大人たちに搾取された「かわいそうな子どもたち」かもしれない。だが一概に「かわいそうな子どもたち」とラベリングして議論の対象にしてしまうのは、災害や事件による犠牲者を名前ではなく数として処理してしまうのと似たような危うさがあるのではないか。
ジュニアアイドルについての問題は多々ある。デジタルタトゥーについて。未成年の性的消費。大人と子ども、親と子の間にある埋めがたい立場の不均衡さ。当事者でなくてもよく考えるべき問題だ。しかしその時、##NAME##には、必ず誰かの名前が入っていることを意識しなければならない。それが問題を議論する第三者としての、せめてもの礼儀だろう。それを教えてくれるという点で、いま、芥川賞候補作としてこの作品が話題になることには、大きな意味があると僕は思う。
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