スタッフストーリー#7 / 葛藤を抱えながら生きてきた私が「ずっとここで働きたい」と思えるようになるまで
不登校を経験した小・中学生時代。
高校を中退し、通信制を経て進学した短大や大学も休みがちだった。
大学卒業後にコンビニで働き、やがて30歳で看護師の道へ。
大好きだったという法律の世界ではなく、生活していくために選んだ看護師という職業。
生きにくさや働きにくさを飲み込みながらたどり着いた青梅慶友病院で、いつしか働くことの幸福感に気づいていた。
スタッフストーリーの第7弾は看護師、本田朋子さんのストーリー。
職場の選択は消去法で
「こんなことを言ったら怒られるかもしれませんが・・」
本田さんはそう言いながら、なぜ青梅慶友病院へ?という質問に答えてくれた。
消去法で決めました。
当時、墨田区にある都立病院に勤務していましたが体調を崩してしまい、
もう少し負荷の軽い職場で、と転職先を探していまして。
そのうちのひとつの選択肢として、この病院を見学しました。
転職先の候補として見学に訪れた青梅慶友病院。
その時の印象はというと。
正直に言えば、そのときはすぐに「ここで働きたい」とはなりませんでした。
みなさんがとてもポジティブな気持ちで入職を決めたエピソードを聞いて、本当に恥ずかしいのですが私には特別な印象はなく。
体調を崩しての転職ということもあり自分自身に余裕がなかった。
それに見学のために電車に揺られてはるばる青梅へやってきた、その疲れもあったのだろう。
初めて青梅慶友病院に足を踏み入れた本田さんは、見学してすぐに入職を決心するほどの気持ちにならなかった。
しばらく悩んだものの、消去法で候補が減っていき、最終的にはある理由が決め手になって青梅慶友病院を選択した。
決め手は、飼っている猫と犬のために広い部屋で生活させてあげたかったということでした。
青梅なら広い部屋が借りやすいですから。
「この病院で働きたい」という強い衝動があったわけではありません。
だから慶友病院に入職後も、こんな私が働いていいのだろうかと葛藤を抱え続けてきました。
この病院で働けて良かった、
これからもここで働きたい、
そんな風に思えるようになったのは、入職して3年が経ったころです。
インタビューにあたって、本田さんはどんな質問にも包み隠さず、率直に、正直に答えてくれる。
集団にうまく馴染むことが苦手だという性格も、学校生活、進学、就職に苦しんできたという道のりも、どんなエピソードも明瞭に落ち着いて話を聞かせてくれた姿が印象的だった。
コンビニで過ごした20代
小学校や中学校では休みがち、高校は中退と、学校生活では苦労をされましたね。
幼いころから他人と何かをすることが苦手な性格で、集団生活には馴染めませんでした。
人生には学歴が必要だという強いプレッシャーを受ける境遇にいたこともあって、何とか大学までは行かなければ、というそんな呪縛によって進学を続けました。
大学で専攻した法学はおもしろかった。
法律という、オリジナリティを求められない世界が自分の肌に合っていると感じていた。
しかし現実は生活のためのアルバイトにエネルギーを吸い取られて、大学時代は勉強ではなく働いていたという思い出しか残っていない。
時代は就職難の真っただ中、学生時代に足踏みが多かった履歴書をみて
きっと就職は厳しいだろうと、卒業後はアルバイト先のコンビニで働いた。
自分一人の力で生き抜いていかなければ、という思いをずっと抱えてきました。
人と一緒に何かをすることに自信が持てず、私はどうやって生活を維持していけば良いのか。
コンビニで働きながら過ごした20代は、そんな不安と向き合っていました。
看護師として働いていく
そうして30歳で、看護学校へ入学。
好きだったという法律の世界ではなく看護師を目指した理由は、人生をひとりでも生き抜いていくための決断だった。
就職に対する不安を強く持っていました。
自分の性格を考えれば、果たしてひとつの場所で長く続けられるのか、
そういう心配がありました。
だから資格を取るなら就職と強く結びついている仕事がいいと思って。
転職がしやすく、人の入れ替わりが流動的な看護師の世界なら自分でもやっていけるかもしれない。
そんなことを考えて看護師を目指すことに決めた。
しかし本来、学校生活が苦手な本田さんは看護学校にも馴染むことができず、当時の先生やクラスメイトには多くの迷惑をかけたのだという。
看護学校の皆さんには感謝しかありません。
そもそも看護師を目指した理由が理由ですから、後ろめたい気持ちもありましたし、なかなか看護の勉強に関心を持てなかった。
でもそんな私を卒業までサポートし続けてくれました。
本当に感謝しています。
看護師となった本田さんが勤務した最初の病院は、愛知県にある高齢者医療専門の病院。
学生時代、看護実習をする中で最も自分に適性がありそうだと思えたのが高齢者医療、そして認知症ケアだった。
看護師を志した理由は生きていくため、と言いましたが高齢者のケアが好きだという思いは持っていました。
認知症の方は、自分が自分じゃなくなっていくという喪失感を抱えながら生きている。
不安と隣り合わせで生きてきた私だからできることもあるのではないかと。
最初の病院には1年8カ月勤めた。
高齢者専門病院で働くなかで、もっと内科的な知識を身につけておきたいと考えるようになり転職。
墨田区の都立病院で働き始めた。
5年くらいは働こうと決めていたが、しばらくして体調を崩し次の勤務先を探した。
そうしてたどり着いたのが青梅慶友病院だった。
いくつかの候補から消去法と住環境で選んだという職場。
しかし、その存在は以前から認識していたのだという。
実は最初の病院、愛知県の高齢者病院で
「東京で高齢者ケアをやりたいなら青梅慶友病院がいいよ」
と先輩スタッフから聞かされていました。
そういえば、消去法で慶友病院を選んだなんて言ってしまいましたが見学をした際に、スタッフの対応や言葉の端々から患者様が大切にされているんだ
と感じたのは確かです。
私は患者様に救われている
看護師として働く自分を少しずつ納得させてきたと本田さんは言う。
慶友病院に入職後も葛藤は抱え続けていた。
しかし入職から3年が経ったころ、心境の変化を感じるようになった。
私はこれまでの人生で、社会に受け入れてもらう経験が希薄でした。
でもここはスタッフ同士の雰囲気が良くて、私のことも受け入れてもらえた。
慶友病院にはそれぞれ全く違う人生経験を積んできたスタッフが集まってきますが、それぞれの違いを排除せず受け入れてくれる、懐が深い職場だと思います。
慶友病院では、職員の交流イベントが盛んに開催される。
同僚との距離の近さ、仲の良さは本田さんにとって、ストレスに感じることはないのだろうか。
正直に言えば、大勢の人が集まるイベントには少し面食らいました。
最初は「出た方がいいだろうな」と思って、ちょっと無理して参加していましたが、強制参加ではないと繰り返し言ってもらえるので、いまは自分にできる範囲で楽しむようにしていますし、「職員を大切にしたい」という思いはしっかりと受け取っています。
入職して3年が経ったころにようやく
「ああ、この病院で働けて良かった」
「これからもここで働きたい」
そんな風に思えるようになった、ということでしたが。
人間関係が良かったこと、が一つ目の要素です。
認知症ケアでは、患者様のためにも環境がとても大事。
働く私たちの雰囲気も環境そのものですから、スタッフ同士の雰囲気が良いということは患者様にとっても非常に大切なことなんです。
二つ目は、患者様への姿勢。
患者様を大切に思う気持ちや、喜んでいただけるケアをしたいという思いが現場のスタッフから自然と湧き上がってくる。
患者様のゆっくりした動きを待てる、一連の動作が終わるまでそばを離れず見守ることができる。
そんな風に患者様をひとりの人間として大切にしたいという文化に共感しています。
それから、私にとっては定時で帰れることや、休みの日に病院へ来る必要がないこと、自分の生活リズムにゆとりがあることも、本当にありがたいと思っています。
慶友病院に入職して8年が経った。
本田さんの人生で、ひとつの場所にこれほど長くいることは初めてのことになる。
8年前、愛猫と愛犬のためという理由で青梅慶友病院を選んだ本田さんは、いつしか「ここで働く理由」をいくつも見つけていた。
慶友病院というところは特殊です。
多くの病院が患者様の「退院後の生活」のために医療や看護を行うのに対して、慶友病院は人生最後の時間を生きる人の「今」を豊かにするためにある。
そのために私たち職員がいる。
そのひとりであるということに、私はいま喜びを感じています。