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なぜ外国語を学ぶのか

 語学教育について、ちゃんと調べたわけではないが、現在殆どの国で、自分が生まれてから話している言語と別の言語を、義務教育のうちに最低一つは学習すると思う。
 わたしは、中学生になって初めて外国語(英語)を習わなくてはならなかった。大学では、理系だったが、第二外国語が必修だったので、英語を第二、ドイツ語を第一にして(英語が出来る人はとても多いので、母数が少ない言語を選んだだけ)、大学からドイツ語も学んだ。
 英語は最初から好きではなかった。入試科目だから、点数を上げる努力は人並みにしたが、受験科目でなければ、力の配分は、大苦手な体育と同じだったろう。ドイツ語も必修だから選んだだけだ。
 そんな「ド・ド・ド素人」が主張する外国語に関した個人的意見なので、おおらかなお気持ちで読んでくださいね。

1. 可能性を広げる

1-1 仕事の可能性を広げる

 わたしは、ドイツに、5年間留学し、仕事で10年間滞在した。日本での学生時代にたった2年間、しかも理系だったので、文系と比べて明らかにレベルが低いドイツ語教育の土台(実はある事情で、文系の独語クラスを半期どうしても受講しなければならかったことがあり、レベルの差に唖然!理系は正確に読めればそれでよし、文系は解釈したり行間を読む)が、どれほどありがたかったことか。
 30年勤務した会社は外資系だったので、報告書・プレゼン資料は全て英語で書かなければならなかった。会議やプレゼンも、一人でも日本では日本語を、ドイツではドイツ語を解さない参加者がいる場合には、英語で話さなければならず、しかも業務に不可欠な文献は99%英語なので、英語は絶対必要な道具だった。
 外国語習得は、先ず、自分の仕事の可能性を広げる。母語以外の言語をある程度できるということは、仕事に就く前の、職業の選択の可能性も格段に広げる。これは誰も疑わないことだろう。

1-2 自分の知識を広げる

 母語だけでは、最先端の理系の知識を手に入れるのが難しいのは、英語以外の言葉を母語とする人たち、ほぼ全員だろう。新しい論文は大多数が英語で書かれている。理系の研究の仕事には、英語は不可欠だ。
 文学でも、世界中の素晴らしい作品が全て母語に翻訳されているという国など、ないだろう。内容の質もさることながら、売れなければ、出版元だって困るから、翻訳されるのは売れそうな本優先ということになる。
 報道でもそうだ。母語の報道だけに頼ると、思わぬ偏向に自分では気づかず、世界中の人が自分の国で報道されている様に世界を見ているという、誤った世界観に染まることになる。米中関係についての報道が、アメリカ側の報道と中国側の報道では恐らく異なるだろうと想像できるが、英語と中国語の両方が理解できれば、双方のオリジナルな報道に触れて、その上でしっかりとした自分なりの意見をもつことができるだろう(羨ましい…)。

1-3 楽しみを広げる

 娯楽でも、外国から入ってくるものにも意識せずに触れているはずだ。能・歌舞伎・雅楽・講談・落語・茶道・華道・相撲・柔道だけが楽しみですという人も、勿論いらっしゃることとは思うが、大部分の日本人は、何らかの外国のからのエンターテインメントも原語や翻訳で楽しんでおられると思う。そして原語で楽しめた方が、楽しみが深まるし、楽しめる幅も広がる。
 旅行もそうだ。外国旅行ぐらい、その国の言葉が出来ることで、見事に比例的に楽しみが増えていくものはないだろう。全く言語が出来ない国での旅行は緊張度だけが高くなり、心の余裕が少なくなってしまう。
 友人の幅も広がる。母語が異なる友人をもつと、日本で「当たり前」なことが、単なる異なる慣習の一つに過ぎない事を知る。それにより、目が覚めた気分になれる。

 では、自国に留まり、国内産業だけに従事し、人間関係も全て自国の人なら、わざわざ外国語を学ばなくてもいいのだろうか。

2. 外国語は母語を映す鏡

 外国語を学ぶということは、丁度自分の姿を鏡で見るのと似ている。生まれてから喋っている言語は、勿論学校教育の中で文法を学習したとしても、自分の姿を客観的に見るのは、鏡なしでは難しいように、外国語を学ぶことで、初めて特性を掴むことが出来ると思う。
 例えば、英語には冠詞があり、しかも不定冠詞と定冠詞がある。場合によっては無冠詞で名詞が使用されることもある。わたしが一番困る場面だ。色々な説明がされているので、読むのだが、冠詞が肌に刷り込まれている感覚がないので、毎回迷う。ドイツ語にも冠詞があるが、酷いのは、名詞に男性・中性・女性があり、それぞれ冠詞が異なる。さらに英語にはない、格変化というものさえある。もうお手上げだ。
 しかし、日本語には冠詞はなく、格変化もない。ということは、どうしても意思を通じさせたいときには、物凄く乱暴な主張だが、冠詞も格変化も間違っていようが、無視しようが通じるということではないだろうか。よく似たドイツ語と英語でさえ、ドイツ語の冠詞の格変化は英語にはない。冠詞も複数も格変化も無い言語を母語にしていることに気づくのは、外国語を学ぶからだ。
 一方、外国人が日本語を学ぶ際に、厄介と思うことも沢山あるだろう。本・枚・個・杯・客・台・匹・羽といった助数詞は、日本語では豊富だが、英独語ではそれほどではない。外国人にとっては、日本語の助数詞の学習はさぞ嫌なことだろう。更に1本から10本まで、ゆっくり発音してみてほしい。本はHON、PON、BONと同じ字で発音が異なり、数詞のほうも同じ数なのに後ろに来る助数詞によって異なる発音となり(例えば八個、八つ、八文字は八の発音が異なる)、これも外国人の日本語学習者には嫌だろうなと思う。
 外国語を学習するということは、日本人にとっては、日本語を鏡に映すことと同じだ。比較して初めて、鏡があってこそ、自分の姿がわかる。

3. 最終的には何語だろうが、表現する内容をもっているか

 英語に関しては、日本で丸8年(中学3年間・高校3年間・大学2年間)教育を受けたが、米・英国人の5歳児に、わたしの英語が劣ることは自信を持って言える(悲しい…)。
 日本ではよく「英語ができるか」かどうかが問題となるが、これは正直変な設問だ。
 母語で語る内容を持っていない人間は、外国語でも語れるわけがない。語学がいくらできたって、資する内容を表現できなければ、意味がない。5歳児が、大人が聞くに堪える講演を行えないのと同じことだ。
 深い自戒を込めて、このことをもう一度自分に言い聞かせる。

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