映画レビュー:ジュラシックワールド 炎の王国(ネタばれ) (2018年の文章を一部加筆)

原題「Jurassic world Fallen Kingdom」

 見たのは公開の次の日で、それから少したったけど、この映画は考察に感想に、いろいろ書きたかった。
 見終わった直後の感想は、「これは困難なことをやってのけた映画だ」というものだった。
 実のところ、この映画の面白さを私の基準で点数であらわすと、そこまで高いわけではない。私は本来、シンプルでテンポよく楽しめる作品のほうが好みであり、その点ではこの映画は悪くはないものの、ジュラシックパークやジュラシックワールドには及ばないからだ。
 しかし、世界観に奥深さのある作品(原作のある作品、シリーズ物、複雑な作品など)には、単なる面白さとは別に、「考察の楽しさ」というものが存在する。ジュラシックワールド:炎の王国は、この考察の楽しさという点では、最高に素晴らしい作品だった。

 ちなみにジュラシックパークシリーズの面白さ(おすすめ度)を個人的に点数であらわすとこんな感じになる

100点満点 ジュラシックパーク
60点     ロストワールド:ジュラシックパーク
75点     ジュラシックパーク3
90点     ジュラシックワールド
80点     ジュラシックワールド:炎の王国

そして考察の楽しさを個人的に点数であらわすとこんな感じになる

100点 ジュラシックパーク
10点  ロストワールド:ジュラシックパーク
0点   ジュラシックパーク3
60点  ジュラシックワールド
90点  ジュラシックワールド:炎の王国

 何が言いたいかというと、ジュラシックワールド:炎の王国は、ジュラシックワールドの続編として人々が期待するであろう、恐竜が暴れるシンプルなエンタメ映画作品としてみるなら、その評価は、「うん、まあ続編にしてはいい出来だったんじゃない」くらいで終わる作品だ。しかし、これがジュラシックパークという作品群の中の一つの作品として、考察を加えると、とても楽しくなるし、本作において個人的に注目すべきだと思うのはそこである。
 よってこのレビューにおいては、巷の「炎の王国」のレビューにあるような、前半の火山噴火シーンが派手でよかったとか、バヨナ監督による後半の恐怖描写と演出がよかったとか、恐竜かっこいいとか、そういった事については書かない。ネタばれ全開、オタク感全開のめんどくさい考察でジュラシックパークという世界の中の「炎の王国」の魅力について主張していきたい。

 そんなわけで、この先はジュラシックパークシリーズを映画、小説ともに全部見ている事が前提で話を進める。

 ところで、一つおすすめのレビューがあるので紹介したい。https://wired.jp/2018/07/13/jurassic-world-fallen-kingdom-review/

 こちらのWIREDによるレビューでは、炎の王国が映画としては何とも言えない煮え切れなさを持ちながら、原作小説のメッセージ性を打ち出してきていることを評価しており、個人的にも共感するところとしないところの混じった良いレビューだった。

マイケル・クライトンが小説に込めたメッセージ

 さて、ジュラシックワールド:炎の王国だが、上にあげたWIREDのレビューにも述べられているように、これはまさしくマイケル・クライトンの書いた近未来SF小説である、「ジュラシック・パーク」のメッセージを盛り込んだ、映画ジュラシックパークシリーズで初めての作品だとさえ言えるかもしれない。

 クライトンがマルコム博士の口を借りて小説に盛り込んだメッセージを極論すれば、「人間がどれだけ発達した科学を用いたとしても、自然、生命をコントロールすることは決してできやしない」というものだ。だが、そのメッセージ性は映画「ジュラシックパーク」ではやや薄れている。映画「ジュラシックパーク」を見て観客が感じるのは、「生命のコントロール不可能性」というよりもむしろ、「自然の恐ろしさ」や「人間の見通しの甘さ」ではないだろうか。これは似ているようではあるが、大きく違うものである。

 小説でも映画でも、ジュラシックパークを破滅に導いた直接の原因は、予算と人員をケチったためできた、外面だけは立派な張りぼての管理体制と、恐竜の胚を奪うためパークの電源を落としたネドリーである。だから、映画版を見た人の多くは「このパークの管理態勢杜撰すぎじゃね?」と思っただろう。そして続編の映画を見るたびに「こいつら前の失敗から何も学んでないだろ。登場人物たちがしかるべき対策をとっていればこんな問題起こらないだろ」と思っただろう。

 だが、それこそが人間の思い上がりであるということが、マイケル・クライトンが小説に込めたメッセージである。もちろん、人間が愚かで、見通しが甘く、失敗に学ばないことなども指摘されてはいるが、たとえどれほど賢明な人間が細心の注意を払ったとしても、生命のような複雑なシステムを科学でもてあそべば(扱えば)必ず痛い目を見るぞ(そして科学を探求するのであれば避ける手段などない)、というのが原作のメッセージである。

(なお、原作小説においてはネドリーによる電源遮断はパーク崩壊の原因ではなく、最終的な崩壊に至る電源喪失まで、幾度とない想定外が繰り返され、パークが十分に賢明に運営されてなお崩壊する過程がえがかれている)

 これは主にマルコム博士の口からカオス理論を用いて説明されるが、一方で、小説ではマルコム博士のパーク崩壊論に否定的な登場人物の考えにもかなりのページが割かれている。
 パークのボスのハモンド、パーク管理者のアーノルド、遺伝子研究者のヘンリー・ウー博士。それぞれが述べるパークについての考えはそれなりの説得力を持っており、だれの考えが最終的に正しかったのか、論理的な決着は小説の中ではついておらず、結果としてはマルコム博士の意見が正しかったのが示されているのみである。しかし、小説だからこそできるこうした登場人物の細かな考えの説明を通して、「生命のコントロールは不可能だ」というメッセージは確かに読者に伝わる。そして、命である恐竜を閉じ込めて人間の都合の良いように管理しようというパークもまた、コントロール不可能なのだということがわかる。

 一方、映画ではマルコム博士こそ出てくるものの、パーク崩壊の直接の原因が人間の稚拙さであるために、パークの管理不能性が本質的であり解決できないものである、という印象はどうしても薄れてしまう。映画のジュラシックパークが名作になったのは、そうした原作小説のメッセージ性を削ってシンプルなものにしたからでもあり、それはそれでスピルバーグの英断であり、結果的には大正解であった。

 そんなわけで、映画のジュラシックパークから観客が受け取るメッセージは「自然と生命の恐ろしさと人間の見通しの甘さ」であり、マイケル・クライトンの「生命をコントロールしようなんて試みはすべて崩壊する」というメッセージは弱められてしまっていた。これが毎度の続編映画で繰り返されれば、観客も恐竜の暴れる姿にしか期待しなくなるというものである。

生命をもてあそぶ人間達

 ここまで、ジュラシックパークの小説と映画のメッセージの違いを述べてきたが、実は、炎の王国のメッセージはかなり小説版に寄せてきているものになっている。

 最初、恐竜の救助作戦を行うとして始まった映画は、そのまま島から救助してきた恐竜を競売にかけるところにまで至るが、これだけ見れば、今までの映画、とくに映画ロストワールドの恐竜捕獲作戦の焼き直しにしか見えない。そうして恐竜たちを甘く見て人間が痛い目を見るだけならば、「人間の見通しが甘いだけ」である。この見通しの甘さは、「がんばれば生命はコントロールできる」という人の驕りの現れでもあり、「生命のコントロールは不可能」というメッセージ性にも密接に関連してはいるのだが、登場人物たちが観客が納得するほどに努力して恐竜を管理しようとしてなければ、危機が起こったとしてもそれは「生命のコントロールは不可能」だからというより、「人間が愚かで見通しが甘かった」とようにしか伝わらない。

 結局、炎の王国でそのメッセージ性が正体を現すのはラストなのだが、ここはいったん、炎の王国にはクライトンのメッセージが込められているという前提で最初から考えてみよう。そうすると、炎の王国の登場人物たちの恐竜たちへの視線は、歴代の映画の中でもひどく、ことごとく生命のコントロール不可能性を無視するような驕りたがぶったものだ(ロストワールド最序盤のINGEN社はこれに匹敵)ということがわかる。

 まず、ミルズなどの恐竜を競売にかけようとする人々だが、これは問題外である。パークをつくったハモンドでさえ、できるかぎり自然に近い生命(人間本位ではあるが)としての恐竜の姿を人々や子供たちに見せようとしていたのに、彼らに至っては人間に便利に消費されるモノとしてしかみていない。これはカオスな生命を甘く見る、愚かの極みといっていいだろう。

 次にクレアやロックウッド達の恐竜保護論者だが、これも駄目である。恐竜は人間の作ったものだから、勝手に作って絶滅しそうになったら見捨てるのは恐竜がかわいそうだ。恐竜たちには生命として尊厳があり、生き残る権利があるんだ、というのは一見まともそうだが、クライトンの代弁者であるマルコム博士なら、それは単なる自己満足だと言って一番嫌いそうな主張である。

”生命の生き死には、どれだけその間に人間の手が入り込んでいようとも本質的に自然のカオスの中で決まるものだ。たとえ人間が恐竜を作り、育てたとしても、恐竜の生命は本質的にカオスであって、人間の管理の範囲外にある。恐竜を人の手で生かすことができるなんて考えは、生命がカオスであることを全く無視し、生命が人間によって保障されているものなのだと考えることであり、自ら生命の自然性を冒とくしているに等しい。本当に恐竜を生命として尊敬するなら自然に任せろ。もっとも、生命の尊厳を守るとかではなく、自分が単に生きてる恐竜が好きだから生き残らせたいと考えているのであれば、矛盾しないが”

なんてこと言いそうである。

 ともかく、炎の王国の序盤では、恐竜を売りたい人も、恐竜を守りたい人も、恐竜を生かすも殺すも人間の力によってなされるのだという風に考えているのである。これは生命のコントロール不可能性と真っ向から反するものであり、原作のメッセージ性をできる限り映画のストーリーラインに取り込もうと考えていた現れのようにも見える。

 登場人物の中でほぼ唯一、恐竜の生き死にを自然に任せよと言っていたマルコム博士は、恐竜が自然の生命で人間の手に余る存在であるあることを理解していたのであるが、ほかの登場人物たちは恐竜の生き死には人の手で管理できると考えてしまっているのである。

 ところで、オーウェンの恐竜に対する視線は、比較的素直なものかもしれない。オーウェンはブルーを自分の相棒であり、また子供のようにも思っており、その生存を願ってはいる。しかしその一方、人とラプトルは共存しがたい存在であり、距離を置かなければならないとも考えている節がある。このあたりは映画の最初にオーウェンが恐竜救出作戦に行くのを渋っていた事からも読み取れる。オーウェンにとってブルーが死ぬのが嫌なのは確かなのだが、一方でブルー救出にすぐに乗り気にならなかったあたり、火山噴火に任せて見殺しにすることを考えていただろうと考えられ、ブルーを助けるということはあくまで自己満足であることを自覚していたようにも思える。とはいえ、この映画でのオーウェンのブルーに対する態度は煮え切らないものがあり、批判される点であるが、考察しがいがある点でもある。

イアン・マルコム vs ヘンリー・ウー

 今作では、前作の元凶であるインドミナス・レックスを作ったウー博士が再登場する。最後までまた死ななかったので次回作でも出るのは確実だろう。彼は前作、今作ともに、どっからどうみても危険そうな特性をふんだんにもりこんだ恐竜をためらいなく作っちゃうお茶目な科学者である。
 炎の王国において、前作以上に小物で悪役臭くなったウー博士だが、小説ジュラシックパークにおいては、ウー博士は探求心にあふれ、合理的で非常に賢い研究者として登場する。マルコムには散々に批判されるが、原作小説において彼は実に真っ当な人物であり、私は原作の中ではむしろ好きなキャラである。
 ウー博士は恐竜の制作者であるため、恐竜がもはや遺伝子操作されて自然ではないこと、また恐竜の危険性や特性もある程度理解しており、危険そうな遺伝子を取り除く事をハモンドに提案したりしているし、多くの有用な情報を登場人物たちに提供している。グラントによる恐竜の繁殖の可能性などについても、当初は否定的なものの最終的には認めたり、かなり柔軟な考えを持つ人間である。

 一方で、原作小説のウー博士には、マルコム博士のカオス理論に対抗する科学万能主義者としての役目がある。次々に起こる非常事態に対して、マルコム博士がそれをパークと恐竜の本質的な管理不可能性だと考えるのに対して、ウー博士(とアーノルド)はそれをむしろパークがきちんと機能しているからこそ起きる問題であり、管理を徹底すれば解決可能な問題だと考えていた。あまりにも立て続けに起こる想定外のため、ウー博士はパークについては半ばマルコムの崩壊論に傾いてはいたが、すべての事象は科学によって解明可能なのだという信念は最後まで揺らいでいない。

 原作ではラプトルに食われて死ぬが、生き残ったジュラシックワールドの世界においては、まさに生命をコントロールしようという試みの先頭に立つものとしてウー博士は登場する。彼はジュラシックワールド1においてインドミナスレックスを、2ではインドラプターをつくっている。ウー博士は恐竜を作っているだけで、別に危機の直接の原因には何も関与していないのだが、彼こそは自然のカオス性を真っ向から否定しようという存在であり、生命のコントロールは不可能だというクライトン、そしてマルコム博士にとっては完全な悪役なのである。

 ここまで述べれば、映画のウー博士が単なる悪役ではなく、原作小説におけるウー博士の役目を完璧に引き継いだ、映画にとってはなくてはならない存在であるということがわかるだろう。かれは、生命をコントロールしようという人々の傲慢な欲望を実現する存在として、その役割を果たしている。原作小説では、ウー博士はハモンドの無茶な要求によくこたえて、多様な特性を持つ恐竜を生み出している。ワールド1においては、観客を驚かせるような恐竜という要求通り最強の恐竜であるインドミナスを作り、炎の王国では軍事用に最適な恐竜をといってインドラプターを作っている。加えて、彼は要求に可能な限り完璧にこたえられるような恐竜を作ろうとする完璧主義者であり、しかもかなりの部分成功している。インドミナスにはありとあらゆる能力をつぎ込んだし、インドラプターでは兵器として人間が従えるための習性をくみこみ、さらにブルーの遺伝子まで用いて人に従順にさせようと試みている。こうした点からは、ウー博士があくまで人々の要求をかなえるために恐竜を作っていることがわかる。

 彼の生命をコントロールしようという試みは、おそらく最終作で彼が食われるまで続くだろう。しかし、もしも世界の人々が、もはや恐竜に対して興味を失い、放置するようなことになれば、人々の欲望の体現者であるウー博士もその試みを続けることはないかもしれない。

Life finds a way

 ここまで、炎の王国がいかに原作小説のメッセージ性を打ち出そうとしてきているか、登場人物による恐竜の扱いとウー博士とマルコム博士の登場から読み解いてきたが、正直なことを言うと私が炎の王国のメッセージが「人の見通しの甘さ」ではなく、原作小説の「生命はコントロールできない」であることだと気づいたのは、ラストの炎の王国で最も議論になりそうなシーンを見てからである。

 それは逃げ惑うただの子供枠だと思われていたメイジーが唐突にクローン少女だと明かされ、そして彼女が恐竜たちをアメリカ本土に解き放ってしまったラストシーンである。

 ラストシーンのポイントはいくつかある。メイジーはなぜクローン少女という設定でなければならなかったのか、彼女がクレアが解放しなかった恐竜たちを解放したのはなぜか、そしてオーウェンとクレアがそれを止められず、その決断に対して何も言わなかったのはなぜか、である。

 まず、メイジーがクローンである理由だが、ストーリー上においてはその必要性は全くない。唐突で蛇足な設定と言われても仕方がない。メイジーがただの子供だったとしてもストーリー展開上は全く問題ない。メイジーの存在経緯はロックウッドのおじいちゃんが娘の死を悲しんだだけと説明されるだけであり、何かストーリー上にてメイジーがクローンであることが活用されるわけではない。

 だが、ラストシーンにおいて彼女が恐竜たちをアメリカに解き放つためには、彼女はクローンでなければならなかった。いや、もっと突っ込んで言うなら、彼女がクローンでなければ、この映画を見ている観客である”私たち人間”が、恐竜を開放するというメイジーの決断を受け入れることができないのだ。

 クレアが恐竜を解放しなかったのは、彼女が私たち観客と同じ社会生活を営む人間としてはごく当然の判断である。恐竜がどれほど貴重な生物であったとしても、解き放てば確実に人間に被害が出る。人間は、人間を害するような可能性を意図的に作ることは社会的に許されないからである。

 メイジーがクローンではなくて人間の子供で、善意から恐竜を開放してしまうのも、映画の展開としてはありかもしれないが、その行為に対する解釈はクレアが恐竜を開放するかどうかの問題と同じでそれ以上の深みはない。例え目の前で苦しむ恐竜を救いたいという完全な善意のみで恐竜を解放し、解放した場合の人間の被害まで想像がつかなかったとしても、ほかの人間を傷つける可能性を招く行為は人間社会では正当化されない。ただ、子供などの未熟な者が判断を誤った場合には、再起のチャンスが与えられるのが社会のルールになっているだけである。

 しかし、メイジーがクローンであるという設定は、彼女を通常私たちが通常使っているような「人間」という言葉に当てはめてしまっていいものなのか、一瞬でもためらいを生じさせてしまう。そして彼女は「彼らも私と同じだから」と言って、恐竜をアメリカ大陸に、人間の大地に解放してしまう。彼女は、ただ目の前の恐竜たちが苦しんでるのがかわいそうで、人間が受けるであろう被害まで考えが及ばなかったから恐竜を解放したのではない。もちろん、逆に自分がクローンだから、人間の命なんて気にしてないから、恐竜を解放したわけでもない。彼女は、解放された恐竜によって人間が傷つけられるかもしれないことを承知で、それでも、すべての生命が生きようとすることを無条件で肯定し、そこに手を差し伸べたのである。

 ここまでかっこつけておいて正確なセリフを覚えていないのだが、メイジーがクローンであるという設定と「彼らも私と同じ」といって恐竜を開放する一連の流れは、クライトンの「生命はコントロールできない」という原作のメッセージ性を浮かび上がらせるだけでなく、さらにその上を行くものでさえある。

 クライトンとマルコムの口を借りれば、これはまさに「Life finds a way, 生命は道を見つける」である。遺伝子工学によって作り出された生命である恐竜は、同じように作られた生命であるクローンの人間によって、その生きる道を見つけたのである。恐竜を生き残らせたメイジーは、本人が言ったように恐竜と同じであり、人間でありながら人間ではない生命をも体現する存在である。遺伝子工学によって生命をもてあそび、コントロールしようとした人間の試みは、マルコム博士の予言通り崩壊した。生命はもはや人の制御をはなれ、その力は解き放たれた。

 だが、炎の王国のメイジーは、単に原作のメッセージを呼び起こしたにとどまらない。メイジーの存在とその行動は、制御不可能なのは自然の生命だけなのではなく、人間も自然の生物の一つであり、制御不可能なカオスなのだということを、否応にも我々に突きつけてくるものなのだ。これは、マルコムのメッセージをさらなるインパクトを持って現代社会に投げかけるものだ。

 原作においては、マルコムは生命のコントロールなどできないとカオス理論で繰り返し訴えていたが、これはむしろ理性ある人間ならば話は聞いてくれるし、理想的に事が進めばカオスを避けることが可能だと信じていたからだといえる。つまり、人間とそのほかの生物について、完全にカオスか、理性があってカオスではないかという境界があり、区別されていた(そして遺伝子工学を含む科学の過剰な探求がその境界を壊し、すべてをカオスにすると警鐘を鳴らしていた)。そしてこのため、ジュラシックパークにおいて人間が遺伝子工学の対象になることもこれまでなかった。遺伝子操作の対象となるは、常に人間以外なのである。もちろん、人を対象にした遺伝子工学のSFなんてそれだけで一冊かけるし、恐竜の話に全くそぐわないのでジュラシックパークに人間の遺伝子操作の話が入る余地はない。だがそれはジュラシックパークにおいて、人間とそれ以外の生命が区別されている一つの表れであり、ほかにも、舞台を遠い孤島に押し込め、人間社会のある私たちの世界から隔離している事からも、人間の理性ある社会と、そうでないカオスな生命の世界を明確に分離していることが読み取れる。

 しかし、現実における遺伝子工学の発達は、そうした人間の世界とカオスな自然の境界を埋めつつある。近年発達の著しいゲノム編集の技術において期待されているのは、家畜や農作物の改良ではない。人間の遺伝子を編集し、病気を治療することである。人間はついに、自らの遺伝子さえ、自然の一部とみなしてコントロールしようと試み始めている。それがもたらすであろう結果は、マルコムに言わせれば明白だ。究極的にはカオス、制御不可能である。

 炎の王国は、もはや自然の生命だけではなく、このように我々人間自身の身に迫ってしまった制御不可能性を、メイジー自身がクローンであることに加えて、アメリカに恐竜を解き放つことによって象徴しているのではないかと私は思う。私たち人間が築き上げてきた理性に基づく世界は、今やもう、もしかすると最初から、ただの幻想でしかなく、本質的には我々の世界もまたカオスなのだと。

 だが、メイジーはカオスを人類にもたらしたのと同時に、カオスたる恐竜の生命を救っている。彼女は制御不能な世界において、生命が生きようとすることは肯定したのである。仮に牢に銃は持ってるが飢えた人間がおり、牢の外には肥えた牛がいたとしてもメイジーは牢を開けるだろう。牛を殺して食べる人間の生の営みは肯定される。だが同時に、牛が人間に突進して殺されるのに抵抗することも肯定される。生命が自らの生きる道を探すための行動は、その結果に対して人々がどう思うかはともかく、等しく価値あるものだ。例え人間の世界が制御不能になろうとしても、人もまた自らの生きる道を探すことができるのである。

 炎の王国は、マルコム博士がいまや人間は恐竜との共生を強いられていると話し、「Welcome to Jurassic World ようこそ、ジュラシックワールドへ」と告げておわる。このセリフを言うジェフ・ゴールドブラムを拝み、大塚芳忠の渋い声を聴くだけでもこの映画には見る価値がある。

炎の王国の英語の題名はFallen kingdom、王国の終わり、とでも訳せる。果たして終わった王国とは、恐竜の世界のことだったのか、それとも我々人間の世界のことだったのであろうか。そんなめんどくさい考察がはかどる映画だった。

ちょっと考察の内容がWIREDのものに似ているかもしれないが、実際WIREDのレビューは後半部分は個人的にも共感できるところが多く、大いに参考にしてもらっている。もしも私の面倒な考察が気に入る人がいれば、光栄の限りである。

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