障害児の教育に学ぶ子育てー『限界を超える子どもたち』の要約そして主張#1
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はじめに
いつか記事にしたと思っていた本の要約。
初めての題材は『限界を超える子どもたち–脳・身体・障害への新たなアプローチ』。
著者はアナット・バニエル。知らない!って?
私も知らない。というのも読書のマンネリから脱するために、大学の図書館の新刊コーナーで目についた本を取るという新しい試みをやってみた。結局は子育てに関する本を取ってしまったわけだが。面白く考えるさせられるところも多かったので要約にしてみる。
著者の簡単な紹介をしておく。脳性まひなどの“スペシャルニーズ(読むまで知らないかった言葉)”の子どもたちへの支援を30年間。「脳の可塑性(近年、発見されたメカニズム)」を利用するアナット・バニエル・メソッドを編み出したらしい。なんだかこの名前だけ聞くと胡散臭いが(笑)。
この記事ではこの本の要約と私なりの主張を入れる。主張の方が大きくなりすぎないように注意。全体を3000字程度ごとに分けて投稿していく(600字もオーバーしている)。目標は3本立てくらい。実際は要約というよりわかりやすく説明の方が適切かもしれない。
構成について
『限界を超える子どもたち–脳・身体・障害への新たなアプローチ(以下『限界を超える』)』の構成を大まかに説明したい。二部構成になっており、一部目に「脳の可塑性」が説明される。科学的メカニズムは出てこない。むしろそれを「どのように実践してきたか」。経験を語る形になっている(著者の主張とも被る、伏線回収はまた後で)。そして二部目では「9つの大事なこと」が書かれる。著者はこの大事なことを「眠っている子どもの能力を引き出すために、脳は何を必要としているか説明しました」と序論で書いていた。
大雑把に言えば一部が理論。二部が実践ということになる。著者は前から読むことを勧めていた。私もそれにならって始めから読むことを勧めるが、面白そうなところからでも得るものがあればいいのだろう。
正常な子には価値がない本か?
ここまで読んで「脳性まひの子たち、あるいはスペシャルニーズの子への実践なら自分の子には必要ないのでは」と思った方がいるかもしれない。この本は先にもある通り“特別支援を必要とする子への実践から得たアプローチ”が紹介されている。「特別支援ではない子どもに必要なことが書いてあるのか」と疑問を持つ気持ちもわかる。こんな質問に答えてみて欲しい。
「普通の子どもってなんだろう?」
会話ができたり、運動ができたり、食事ができたり。
呼吸器をつけなくても呼吸ができる。手足の指の数が5本。過不足なく。
私たちは“普通”を定義できない、なんとなく、それでいて強烈な影響力を持つ“普通”や“正常”を持っている。曖昧であるからこそ価値観になるという逆説。普通を決めつけるのは誰にでもあること。人からは“普通”に思われていない人でも。
さっそく主張は控えめにするという公約を破ってしまった。なぜなら、以上述べたような“普通の子”への疑問を『限界を超える』では扱っていないからだ。脳性まひの子たちは異常性の中にカテゴライズされてしまっている。だからこそ可塑性を持ち出しているという話は後で。、“普通”とされる子も“異常”とされる子も同じ人間で大切なことに変わりはないという、ごく自然な話を忘れている人がいるかもしれないから。ある程度の誌面を借りて話をした。
間話。「カテゴライズの悪魔」
『限界を超える』は大学の図書館の新刊コーナーで借りた事は述べた。新刊でいる期間が終われば、本棚に戻されるだろう。背表紙を見ると378の番号。これは障害児教育の分類になる。きっと障害教育に興味ある大学生が借りることはあっても、これから育児を担うであろう、ほとんどの学生は読まない。大学生だけに限った話ではない。
「カテゴライズの悪魔」。そんな言葉が浮かぶ。
もう少し飛躍して社会問題へ飛びたいところだが、長くなりそうなのでやめにする。
というのも、起こる可能性をつぶすことに腐心し、起こったトラブルは見過ごす。金髪にした、遅刻をしてきた“不良(でもなんでもない)予備軍”に教育、更生の時間をかけて正常に戻し、実際に犯罪にも手を染めてしまうような子どもたちは無視をする。境界線がはっきりと引かれる排除の社会構造についての話。とりわけ教育に蔓延る問題についてはまた今度の記事に譲る。
構成についても、この本を皆さんが読む(「この要約の記事を」が隠れている)意義についても話した。
「脳の可塑性」と障害児教育
いよいよ第一部。「脳の可塑性」とはどのようなことか。そしてそこから得られる障害児教育。ひいては子どもの教育とは。
「脳の可塑性」。脳を理解できない人はいないはず。問題は「可塑性」ってどんな意味?ということ。ずっと疑問を持ちながら今までの記事を読まれたのではないか。わかりやすい説明を銘打っておいて語彙の説明を問題は「塑」という字。漢字ペディアで調べると以下のように出る。
粘土をこねて形を作る。また、土で作った人形。
つまり、「塑」の字には“粘土のように形が変わる”という意味があるようだ。であれば「可塑性」という意味は“形が変わるか、その可能性”を意味しているとわかる。
『限界を超える』のなかで「脳の可塑性」は以下のように定義されている。
新しい神経回路をつなぐことでみずからを再編成し、さまざまな能力を獲得する脳の性質
この文の中で隠れているものがある。それは神経回路がいかにしてつながるかという部分。結論から言えば運動。純粋な意味での運動。スポーツの意味もあるが、会話など喋る運動も含まれている。運動より行動といった方が無難かもしれない。以上をまとめた図を作成した。
ここまで、「脳の可塑性」、「運動」との関係などを理解していただけたか?
モヤモヤの人は取りあえず次に進んでほしいが、さっぱりわからないという人はGoogle先生に聞いてみて。何がわからないかわからないというアホな高校生みたいな物言いは遠慮して欲しい。
十分、理解した人の頭にはこんな疑問があるのではないか?
「可塑性って難しい言葉を使っているが、勉強をして記憶として残るってことと同じでしょ」と。その通り。勉強が運動で、記憶が新しい神経回路ということになる。では、なぜ著者は「可塑性」という言葉を持ち出す必要があるのか。それは「脳に損傷をもった子は、その損傷によってできないことがある」と思われていたから。かなり飛躍した。順を追って説明する。まず、イメージ図を見て欲しい。
定義上だが、本来の脳を丸とする(もちろん本来の中でも個人差がある)と、脳に損傷をもつ子は欠けている。可塑性が見つかるまでは欠けた脳をいかに正常に戻すかを考えていた。歩るくためのリハビリ。言葉を覚えるための読み書き。などなど。
可塑性という仕組みが見つかったことで正常に戻すことより、今ある能力を使って運動させ、新しい神経回路を繋いだ方が能力の輪が広がると感が得られるようになった。
読み書きができなくとも、絵を描くことができるならそれをやらせる。歩けなくても、手足を動かさせる。できることをやることで新しい能力が身につくかもしれない。私で言えば、できない英語の勉強に腐心するより、生物や社会学を突き詰めて、英語でしか得られない情報を欲するまで行けば、英語が身につくではないか。そんな意味。
最後に〜付論と感謝を添えて
第一部の残りと第二部は次の記事に回す。なかなか読むのに疲れただろう。書くのはもっと疲れるということだけ伝えておくが(笑)。
最後に余力を絞って「科学についての誤解」という話をする。
再三出てきた「脳の可塑性」。発見されたことで障害児への教育を変えることができたという著者の話をしてきた。ここに誤解が生じているかもしれない。「脳の可塑性」というのは以前から人に備わっていたということ。誤解の懸念は「脳の可塑性」というツールを最近になって手に入れたという思い込みにある。前々から脳は運動によって構造を再編成させてきた。最近になってようやくその事がわかってきたというだけ。
ここでニュームの太陽に関する帰納的帰結という話。「これまでずっと太陽は登り続けた。であれば、これからも登り続ける」という帰納的(経験的)な結論。実際の物理学では太陽には寿命がある。伝えたいのは経験的に得た情報が必ずしも正しいわけではない。脳に障害のある子を治療(できないことをできるように)するより、できることを伸ばす方がいいということ。帰納的な知見が正しいと裏付けられる事もあるだろう。
かなり長く書いてきた。次は一部の続きである「学びは体験から」という伏線回収から始める。投稿は一週間後が目標。実の所、二部はざっくりとしか読めていない。
本当に最後にする。ここまで読んでくださった方に感謝を述べたい。読みづらさや分かりづらさもあっただろう。付き合ってくれた方はよほど寛容なのであろう。そんな優しさに漬け込むようだが、コメントが欲しい。もっとこうして欲しい。ここが分かりづらい。5段階評価で数字だけのコメントでもいい。お願いします。
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