「頭がいい」とはどういうことか ――脳科学から考える|読書メモ(2)
第1章は『「頭がいい」ってどういうこと?』ということが書かれています。
とはいえ、時代は加速主義ですから、なんだかんだ「答えがあることに素早く答えをだす能力」に長けている人の方が生き残りやすい。
答えがないことに応えを出そうとする営みが、とっても尊いことは理解できるし、ありのままに実行できればよいですが、他方で、はたして世間様はそれを許すのだろうか?という疑問もあります。
読んでいる最中、「天才柳沢教授の生活」に登場する”文学部の出口くん”のことを思い出しました。6年間も大学に在籍してシェイクスピアの83番についての宿題をやり続けているというぐう聖。提出するたびに教授につきかえされるが、けっしてくじけない。周りからも白い目で見られている。しかし教授は出来が悪い男と口でこそ言え、実はどの生徒よりも買っている。
どうやら「頭がいい」について、わたしたちが考えているそれと、毛内先生(脳の研究者)が考えるそれとは、ちがうらしい、ということが示唆されています。ややもすれば、脳の研究者が考える「かしこい人」は、わたしたちには一見そうは見えないかもしれません。
また、物事に粘り強く取り組み挫けない脳の働きといわれると、脳科学をかじっている人は「あのことかな?」等と、ついつい勘ぐってしまうところがあるのですが、本書の目次構成を見る限り、どうやら既定路線ではなく、新構想を打ち出しています(あえて詳しくは述べませんが)新手が序盤戦で現れました。
にしても、わたしたちはすでに「頭の良さ」について強力な固定観念を持っているのだなあと気づかされました。
それは、現代のスティグマ(やきごて)のごときものとして、機能してしまっている。おもてだって言われることは少ないが(ホリエモンのようにバカ差別やブルーカラー蔑視を公言するセレブリティもいるが)、有象無象の知的格差が、人々の心に癒しがたい傷を負わすこともあります。
ゼロ年代後半~2010年代あたりから、ようやく数値にできない能力(EQとか非認知能力とか)の重要性が説かれるようになりましたが、まだまだ、標準的な、もっとも妥当と思われる正解を、すばやく導く能力が高い人ほど有利であるのに変わりはありません。なぜなら、誰もがそれをかしこさのしるしと見るからです。
「頭の良さ」を「理性的であること」と思っている。数学センスや読解力といった、知的コンプ勢の大好物もそれに包含されるでしょう。なぜ数ある人間性の特質のなかで、それを特別に高く評価するのか?をとことん考えはじめると、なかなか終わりがみえない。
でもそれは毛内先生の提議にも言えることです。
「くじけない」ことが知性の中核だというのならば「情動」にふれないわけにはいかないだろう、と。だとするならば(上段の問いとリテラルに)なぜそれを特別に高く評価するのか?、と。
個人的には、これまでにないほど深い議論になるのではないかと感じています。それとも、新書にそれほど過度な期待を持たない方がいいのでしょうか。まだ判断できません。
<続>