ほらあな
冬日和で、いつもは汚れた大気に隠れている星空が姿を現していた。ビルが隙間なく並んでいて、それが地平までずっと連なっている。
街道では人々が蟻のようにゾロゾロ動いていた。誰も星空なんかには目もくれていなかった。瞳くんもまた、その一人だった。瞳くんはただ変わりたかっただけで、ここへ移ってきた。もっとも、ここでの生活は瞳くんの先を越して、いつ何時でも変わってしまう、、、次々と役割は変わり、それをこなしていけなかったら、見捨てられるだけだった。それでもここに漂泊し、生きている。瞳くんは何者でもなかった。
今の職場でマキちゃんと出会った。その時は、瞳くんは何の予感ももっていなかった。マキちゃんはすでにマキちゃんの世間のなかにいた。小柄で、非常に美しい人だった。
要領がよく、職場の社長にも好かれていた。マキちゃんは素晴らしい日々を過ごしていたのだろう。何よりその肉体には、若さが漲っていて、それだけでマキちゃんは愉快だったはずだ。自然と、薄皮が剥がれていくように、どんな男とも交われる。情愛を感じさせてくれる素敵な男に対しては、純粋になれたし、それだけの器量があった。男との間に生まれる感情をじっと観察していた。時には、男のほうが、マキちゃんにたじろぐことさえあった。
瞳くんはまったく遊びのつもりで、マキちゃんを誘ったのだった。マキちゃんはマキちゃんで、瞳くんの魂胆には気がついていたが、不思議と悪くない気分で、誘いに乗った。瞳くんの外見の他にも何かがあるような気がしたのだろうか?食事をしている時に、マキちゃんの方から、性交に誘った。「うん、、、」と瞳くんはいって、そのまま二人はホテルに入った。瞳くんの脳みその中には性欲の他には何もなかった。
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二人は性交した。瞳くんの精神に変化が起こった。何度もマキちゃんの名前を呼んで、夢中になってしまった。マキちゃんは吃驚した。その夜は、二人はずっと抱き合っていた。マキちゃんは小さな体をいっぱいに使って、瞳くんをぎゅうっと、抱きしめた。しばらく瞳くんの胸に潜り込んで寝てしまっていた。
マキちゃんの体はやわらかく、そして頭から四肢、つま先に至るまで夥しい熱を蔵していると感じられた。瞳くんはマキちゃんの手を取って、自らの肉体の最も熱い部分に導き、握りしめさせた。
「すごいだろ?」と瞳くんはいった。「全然すごくない」とマキちゃんはいった。しかしそれは脈打って、生き生きとしたものを絶えず瞳くんの内部へ流入させている存在だった。
朝になろうとしていた。依然として、街は煌々としていた。あの青白い地平線の向こうの世界とは何の関係もないというような姿だ!ところどころで、無数のカラスが鳴いていた。二人は外へ出、地下鉄のホームへ向かった。枯れた並木に風が通って、「寒い」と、マキちゃんはか細い声でいった。
瞳くんはよい気持ちで、暖かさを感じながら、あたりの景色を眺めていた。間もなく日が出てきた。瞳くんは、日に照らされて、眩しそうにした、マキちゃんの真っ白な横顔をちらりと見た。
美しかった。やはり美しい、しかしマキちゃんが全く違う世界の人間のようにも感じる。どうしてそう感じるのかは、よく分からなかった。マキちゃんも、瞳くんを見つめかえした。
「何を考えているの?はっきりして」
「、、、付き合ってください」
「でも今、付き合っている人がいるの」
「じゃあ、その人とは、別れてください」
駅に着くとそのまま二人は別れた。電車の中でマキちゃんはぼんやりと考え事をしていた。
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職場は机と棚しかないのに、やけに散らかっている所だった。しょっちゅう人が辞めるので、いつも人手不足だった。瞳くんの上司は、痩せた色の白い男で、身なりは一生懸命に着飾っていて、ファッション雑誌の切り抜きみたいだった。
裏表が激しくて、よく人を失望させていた。怒りやすく、それを抑えられないので、度々些細なことで諍いを起こしているのだが、本人も自分のことがよく分かっていたので、上には必死におもねることで、今まで起こしたトラブルは内済みにされていた。
それに頭は切れる男なのだ。瞳くんは毎日、この男の機嫌をとらなければならなかった。が、男は瞳くんに対しては冷たかった。二人が会話をすると、まわりの人も不快になった。
瞳くんと話す段となると、男は急に声色も態度も変わってしまった。瞳くんが意見を言うと、男はイライラした調子になった。
「お前、阿呆か?」
「じゃあ、客先にどう説明するんだ?いえ」
瞳くんがゴニョゴニョ、、、言うと、
「馬鹿かお前は!こういう時は、、、」と「正しい説明」をくどくど捲し立てて
「お前も、瞬時に、そう言えるように、なれよ!」と男は叫んだ。
「了解しました」
「本当に分かってんのか?じゃあ、分かったことを、今いえ」
瞳くんは男の話の要点を、すらすらと答えた。
すると、これがまた男の癪に障る、、、毎日こんな具合だ。
瞳くんとマキちゃんはこっそりと会っていた。見晴らしのいい所に座って、相手を見つめたり、手を繋いだりする、それだけで、お互いの肉体に驚きと交歓とがはしった。
マキちゃんは次第に、今付き合っている男と別れて瞳くんと一緒になりたいと思うようになっていた。付き合っている男は医者だった。都内の豪邸の実家をもっているような人で、周りからは、まだ三十歳なのに「先生」と呼ばれていた。プレイボーイで、常に性の研究をしているようなところがあり、次々に女を籠絡していた。
マキちゃんとは、マキちゃんの母親が入院していた病院で出会って、一目ぼれした。男はマキちゃんの職場や家筋を調べ、偶然を装いながら、マキちゃんに近づいた。
確かに男は知的で優しかった。その振る舞いにも下品なところが一切なかった。マキちゃんは男の金ぴかの上辺に目が眩んでしまった。それで、半年ほど前から、男と同棲していた。しかし、二か月の蜜月の後、マキちゃんは男を大して好きではなくなってしまった。
金ぴかの鍍金が剥がれて、男の病的な自己中心性、自意識過剰さが露わになっていた。急にマキちゃんに、恰も妻のように振る舞うことを求めてきたのだった。その度にマキちゃんは猛烈に怒り狂って抵抗した。
「好きな人ができた」とマキちゃんは男に告げた。こういう場合は、実に手慣れたものだった。ガーン!!!それで、男は動揺して、いきなり指輪を賜わるなどの、頓珍漢な行動をとった。その指輪は、、、マキちゃんは渋々受け取ったが、それだけだった。
男のマンションを出ていくことにしたが、男には何もいわなかった。「最後の日」は、玄関の前で男と立ち話をして「じゃあ、もう行くね」といって、キスをした。それっきりだった。 さよーなら。
会わなくなって、暫くすると、男は突然避けるようになったマキちゃんに激怒して、家に押し掛けてきた。「どうして無視する?それが恋人に対しての態度なのか?」と、男はいって、つめよってきた。
「そんなだから、愛されないんだよ(笑)」とマキちゃんはいった。指輪はしていなかった。「この、嘘吐きめ!」と、男は叫んだ。しかし、マキちゃんは冷めきっていた。あまりに冷たい態度をとられたので、男もついに諦めてしまった。この男は、マキちゃんに「処理」されてしまった。
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マキちゃんは一人の自由を取り戻したので、これからは思いっきりのびのび出来る!と思った。早く瞳くんにあの日の事の話をしたいという気持ちで、体が疼いていた。
仕事を終えると、マキちゃんは暫く瞳くんと話をして、家路についた。マキちゃんはものすごく不機嫌になって、切れ長の鋭い目をキッとさせて、怒りで周りが曇っていた。なぜかというと、瞳くんの言葉が少な過ぎたせいだった。
「カッコつけやがって!糞野郎!」とマキちゃんは心の中で叫んだ。瞳くんは若い。若いというのは一つの精神のようなもので、仕方のないものかもしれない。
マキちゃんは憮然としたまま、足早に電車に乗り込むと、ずっと窓の向こうを眺めていた。ビルディングが形もなく移ろうだけの、意地の悪い景色が広がっているだけだった。「こんなところにいても、ちっとも嬉しくない!」涙が出ていた。でも本当は、そんなことが悲しいのではなかった。何も起こらない、心が震えるような事が起こらない、それが悲しいのであった。
駅を降りると、いつもとはガラリと違う景色が広がっていた。マキちゃんの住んでいる地域は、昨日の大地震で計画停電となっていた。真っ暗な街は、いつもより巨大に感じられた。往来では、無数の人影が、それでも当たり前のように歩いていて、何だか滑稽だった。
「わぁー」とマキちゃんは声を漏らした。星空が宝石のようだった。月が冷たい結晶のような光を放っていた。駅のコンビニで買った、冷たい水を飲んだ。
それでも、さっきの嫌な気分が慰められたわけではなかった。闇の中をどんどん歩いて行った。大勢の人影が、車道の真ん中を闊歩していた。マンションの窓から、疎らに漏れている懐中電灯の明かりが、その姿をいっそう惨めにしていた。
ひたすら静かだった。誰もが、朝になるのを、じっと待っているかの如きだった。区域全体がこうなのだった。不潔で生ぬるい空気だけが、いつもと変わらなかった。マキちゃんは家に向かって、中心街を下って行った。
どこの店も開いていないように思われた。ただ、時折人影が、のそっとすれ違う、、、気味が悪い。数人が、道路に屯していて、誰もが黙っている。マキちゃんは不快になって、早く帰りたいと思った。
が、不思議なものを見たので足をとめた。
場末に一軒だけ、店が開いていたので、吸い込まれるように、そこに入った。中では、ロウソクの灯だけのぼんやりとした明かりに照らされた、客の影が動いていた。値が張る店だったが、結構な人数が入っていた。皆、静かに微笑んで、喋っていた。
ここだけは外と違っていると思ったマキちゃんは、少し貴族的な気分を味わうことが出来た。店長と数人の部下が、ヒソヒソ声を掛け合いながら、テキパキ仕事をしていた。ガスが使えないので、炭火で調理していた。
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マキちゃんは支配人に「何でもいいので、おいしいお酒はありますか」と尋ねた。店長はしめたと言わんばかりに、お勧めの日本酒の話をした。マキちゃんはそれを頼んだ。それから、新筍やら、魚料理やらを頼んだ。 新筍の味は素晴らしく、栗のように甘かった。それから何合か、同じ日本酒を楽み、マキちゃんはよい気持ちになった。
隣に、男が座っていて、しきりに店長に絡んでいた。そのうち、マキちゃんが食べていた新筍を褒めて、すんなりとマキちゃんと男の会話に流れていった。
普段、その場限りの会話などしないマキちゃんは内心驚いた。それは、平時とは違う、何ものかが作用している為のように思われた。
はじめは、お互いの共通事項である昨日の震災の話になった。 彼是話しているうちに、男の氏素性が明らかになってきた。男は経営者だった。
「あなたと話が出来たのも、こんな時だからでしょう?時にはいいもんじゃないですか?ねえ店長!」と男は陽気に言った。それに店長は相槌を打っていた。
「そうですね、、、」とマキちゃんはいった。
今、目の前で起こっていることが、ショックだった。 その瞬間、パッと街全体が、いつもの明るい姿にもどった。 何人かの客が声を上げた。
それまでのおぼろな時間が嘘のように、日常に引き戻された。マキちゃんはついさっきまで唯一の灯だったロウソクの火をぼんやり眺めた。「ああ、あなたは、よく見ると、大変お美しいですね」と男はいった。 すかさず、店長は「あら、そうですか?私はさっきから、そう思っておりました」と言った
「気持ちいい?」とマキちゃんがいった。
「いいよ」と、その顔を見上げて、男はいった。
そんなに気持ちいいとは思えなかった。 このおっさんは、勃起はしているが、酔ってふらついている体と同様、感覚が曖昧になっている。 男は、はじめにあった感情が、徐々に希薄になっていくのを感じていた。マキちゃんの、張り詰めた、白く輝かいている肌を眺めたり、揉んだりするのだが、どうにも気乗りしないのである。
このまま性交は不首尾に終わってしまうのではないかという不安が、男の頭に過った。 マキちゃんの動きがいっそう激しくなって、男はそのまま、発作的に果てた。
身を起こすと、コンドームの中に精液がはいっている。
「汚い」とマキちゃんは思った。汚いと思ったのは、男の真っ白な、綺麗な色をした精液のせいだった。
そう思ったのは、男とその精液の見かけが、かけ離れているような妙な気分になったからだ。マキちゃんはおしっこをした。その音を、男はぼんやりと聞いていた。マキちゃんは、小さな声で「やらなければよかった」といった。「つまらん」といった。
その後も男はいろいろと気安く話しかけてきたが、冷淡になったマキちゃんはそっけなく相槌を打つのみだった。もうこの男は用済みだった。それで、ホテルを出ると、あっけなく別れた。さよなら。
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さっきまで見ていた景色は種も仕掛けもなく消えてしまい、いつもと変わらない、日常の中にいると思うと、ただそれだけで、退屈で酔いも醒めてしまった。
マキちゃんは家に着くと、とりあえず、リビングで寛いで、テレヴィのスイッチをつけた。遠いところで、大勢の死人が瓦礫の山の下に臥していた。家が、全て海に流された。 原子力発電所が、放射能をまき散らかして、狂気の沙汰となっていた。
この一大事に、都内の人々も大童となっていた。画面の向こうで、自分一人では何にも出来ないような、無力な人が、よせばいいのに首相の文句をいっていた。
まるで自分の今の境遇は、政府のせいなのだ、とでも言いたいような口ぶりで、馬鹿の一つ覚えのように、ひたすら「政府」を罵っていた。
それだけではないか!それで「まずいことになった」といって、恐怖を煽るだけで、この人間のいうことは、絵空事ばかりだった。それは弱い、一番弱い人間のやることだ、とマキちゃんは思った。
瞳くんから電話がかかってきた。
「話してもいい?」と、電話の向こうで、瞳くんの声がした。
「いいよ」
「さっきは、、、ごめんなさい。でも、どうしてあなたが、あんなに怒っていたのか、わからない」
マキちゃんは返事は、しなかった。
「それが、俺のせいなのは、分かっている」
「あなたは、子供だからね」
「、、、」
「あなたと、いっしょになりたい、、、好きです。付き合って下さい」