自分の弱さを知る(9)
いまやITの発達の恩恵に与り「ヤベェ奴」の”歪みっぷり”は主にSNS/ブログ文体を通じてものの見事に可視化された感がある。これは、人並みの繊細さを持つ心ある市民たちにとっては不快以外の何物でもなく嘆かわしいことだが反面、よくよく考えると画期的とも思う。
異常人格の生態を知る格好のサンプルがあちこちにあるのだから。むろん私(達)自身だってこうした新技術を使って社会へメッセージを送る者の一部であることを忘れてはならないしいつなんどき自分が「ヤベェ奴」の側にまわるか分からないのだけど。
他方で、どうもネットのなかは時空間そのものが捻じれているような奇妙な価値観の氾濫と混沌がある。私達のお父さんお母さん、どころか、おじいちゃんおばあちゃんまでもスマホを手にしてSNSを見ている時代である。裏ではみんなクソリプ飛ばしてるというつもりはないが、
普段の家庭生活からはうかがい知れなかったようなかつては下品な罵倒文体にふれていた”元若者”たちと、はからずも世代を超えてオーバーラップする、ということも、ありえない話ではない。
2010年あたりを境に(つまりスマホが普及した時期を前後して)テクストそのものの存在価値が激変したらしい。それは、このまえのひろゆきの辺野古ツイートと以降の各界の一連の反応とその苛烈さを見れば明らかだが、ネットに投じられた数行のテクストをきっかけにそれまで眠っていた遺恨が蘇ることもある。
これではいつ暴動が起きるかもわからん。これは自分とは異なる価値観に会った時に脊髄反射せずにひとまず相手との距離を見定め、自己の内なる声の反応を待つこと、およびテクストへ還元する…、という”読むこと”を習慣としない人々がネットに大量に流入した結果といえるだろうか。
ひとついえるのは現在、徒党を組んで特定した対象(敵)を延々と攻撃したり、若い女性を精神病になるまでストーキングして追い込むというような類いの異常な輩が絶えないのだけれども連中がそうなってしまった理由はiPhoneを手に取ってしまったからではないし、ましてやツイ廃になってしまったからでもないということだ。
そうではなく現実でもネット(のテクストの世界)でも「ネグレクト」されたままきているということが、ことの本質だろう。それをみずからのあくまで外部の対象への加害によってなんとか埋め合わせようとする。
いま私が「アイデンディティ」について繰り返し考えているのは斯くの如き時代要請と状況をふまえた動機によるところが大きい。
<続く>