「大人」の概念が変わる

ゲルハルト・リヒターという現代アートの「巨匠」がいる。老いたとはいえその影響力はまだまだ侮れない。今年の6月にあった個展も盛況だったとのことで御年90の画家の作品が、若い世代にも人気があるってのは改めてなかなか凄いことである。作品の価格だけでいえばあのジェフ・クーンズやダミアン・ハーストよりも格上=最上格というのだから(そのような市場唯格論は愚かだが)驚く。まだ今ほど名声を確立していなかった頃、90年代末~ゼロ年代頃からちょくちょく見かけてきた。美術手帖の特集もリアルタイムに立ち読みしてたし今の若い世代の人はあのスキージーで塗り塗りした画面を連想するだろうが以前はもっと過激なポルノグラフィのような挑発的な作風だった。

ポルノや写真をトレースしてそこに少しノイズを加えて現代アート風味に仕立てるってのが以前のリヒターのやり口だった。現代アート風にパッと見難解であること、にもかかわらず、経済合理性を否定しないアートであること(つまり保守層にウケる)この2つが隠し味になっていると私なんぞは思う。60年代から「反絵画」が台頭してきた背景があって(物質から非物質へ、コンセプチュアルアートの隆盛)80年を境にその反動のような形で絵画/彫刻回帰の流れが出てきた。90年代~ゼロ年代初頭には村上隆、会田誠が新しいスターとして登場してきたが以降は「絵画 meet 彫刻」が主流になる。

リヒターと同じドイツ出身のアンゼルム・キーファーなども90年代以降の流れにハマった一人だろう。一方でポール・マッカーシーやジェイソン・ローズのような「反絵画」勢はやや分が悪くなっていった。こう几帳面に整理していくと、2010年代にリヒターがドイツの「最高峰」に格上げされたことは画家本人の手腕では決してなく世界のアート市場と美術館を筆頭としたアート・システムが捏造した空虚な「フィクション」だということが理解できる。リヒターの評伝を読んだこともあるが60年代末からずっとコツコツと地道に精力的にあくまで「絵画」作品を制作してきたという”信頼感”がドイツの世間にうまくフィットした側面もあろうかと思われる。ドイツは有言実行を旨とし、いっかい発言したことを取り下げるのをよしとしない国民性である。換言すると日和見主義を何より軽蔑する。

その点「リヒターは信用できる」云々、お眼鏡にかなう。体制側の「(それでもなんとか)絵画を死守したい」という欲望と背中合わせに。再整理するとマーケティングがいつも的確で大量生産品のように多作であること。アメリカの50年代の美術をうまく換骨奪胎してセルフプロデュース術なども参照しつつ制度に忠実になることで制度に守られながら金持ちに好まれる作品を制作して市場をうまく泳いでのし上がってきた。

ちょっとまえ美術館のゴッホ、フェルメール等の名画にブシャ―っと”ぶっかけ”て回っている環境活動家が話題になった。下記は斎藤幸平(東大准教授)の論、

百歩ゆずってこの一連の過激な行動が斎藤氏のいうようなマジョリティーへの挑戦の有効な戦術なのだとしてあくまで「仮に」という留保付きであるが、その目の付け所のよしあしの「根拠」について、ほとんど何も言及してないので全体的にヘンテコな記事になってしまっている印象だ(のちにこの東洋経済オンラインの記事も批判を浴びた)

ただ批判を覚悟でいうと個人的な印象は悪くないのである。こいつらはたしかに愚劣だがなにか時代を切り開く新しい思潮が顕れている。なんなら(体制に従順なバカ息子としての)リヒターを殺すくらいの威力はあったんじゃないかと私は思う。

たいがいの親は子供を見るときに自分が子供だった頃にまわりに期待されていたことと比べて評価するものである。しらないあいだに「若かった頃の自分」が基準になっているのだ。特にアート(アーティスト)の場合この傾向は甚だしい気がする。

小説もろくに読まずにアニメを観ている現代っ子を見て嘆く親は、明治頃、漢籍も読まずに小説ばかり読みふける子供を見て世の親たちが嘆いていたことを知らない。と同様に今のところは30のオッサンがニートの引きこもりであることをよしとする社会ではないが30年後はどうなっているのかわからない。「40で成人式」とか言われているかもしれない。

そして、いままさにトートロジーが壊れている最中という予感はある。

私もド底辺のオッサンだけど「若者」のやることなすことを馬鹿にするオッサンにだけはなりたくない。

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