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結局高校野球に生かされてる

白球を追う必要がなくなった高3の夏から、もう8年の月日が経った。

不思議に思う。気付けば今年も高校野球に虜になっていた。
思い返せば、就職も高校野球に携われると思って記者の道を選んでいた。

才能もなく、練習も嫌でずっと嫌いだった野球。
その野球から結局、今年も力を沢山もらっていた。


6月、北海道の地区予選からスポナビで結果を追っている自分がいた。
「暇だからチェックしてるだけ」。そう言い訳して。誰も聞いてきてねぇのに。
その癖いい投手を見つけると、「北海道の公立にこんな逸材が!」と興奮。
もう記者で高校野球はこりごりだと思ったんじゃなかったの?と、自分に呆れる。

7月、神奈川と東京の予選が始まる。
家ではtvkとJCOMの高校野球中継を流しっぱなし。
「うわっ…神奈川の公立投手、レベル高すぎ…?」
「母校勝ってる。乗るしかない、このビックウェーブに!!!」
と誰も聞いてない独り言を家で叫びつつ、楽しんでいた。

母校・桜美林の試合は2試合、現地で見ることが出来た。
負けてはしまったが、西東京ベスト8。神宮で野球をしている姿は立派だった。

試合後、同期2人と一緒に、現役時代お世話になったあるコーチの元へ挨拶に訪れた。
3人のうち、僕は2人目にあいさつした。
以下、コーチからの返事。

1人目「おお!来てくれてありがとうな(笑顔)」
2人目「どうも、ありがとうございます(真顔)」
3人目「おお!久しぶりじゃねえかぁ!(迫真)」

そう。私だけ敬語である。
完璧に存在を忘れられていた。

確かに現役時代の背番号は20だったが、結構キャラは濃かったはずなのだが…。
頼みますよ、松本コーチ。


その後は西東京の決勝、神奈川の決勝も見に行った。
いずれも1人で。(べ、べつに友達がいないわけじゃ…)

神奈川の決勝は東海大相模対横浜。
これは個人的に思いが詰まった1戦だった。

どちらの高校も記者時代に取材経験あった。
というか、横浜高校は私が大好きな高校だ。
村田監督に初めて取材できた時、長浜のグランドに初めて足を踏み入れた時、いずれの瞬間も記者時代で夢がかなった瞬間の1つだ。

一方、東海大相模にも思いがあった。
監督の原さんは、同校に就任した直後から取材していた。
甲子園にあと一歩届かない結果に、悶々としている監督の姿を見てきた。

そんな両校の戦いは、死闘といえる一戦だった。
本当にどちらが勝ってもおかしくない戦いだった。

しかし、勝負には終わりがある。
相模勝利の瞬間が訪れた。
横浜高校側のスタンドからみていた私は相模のベンチにずっと注目していた。
優勝の瞬間、取材では冷静な原さんがどんな感情を表現するのだろう。と。

原監督は、感情を爆発させていた。
部長、コーチと輪を組んで抱き合い、咆哮をあげていた。

普段からは想像がつかないほど、喜びを爆発させていた。
高校野球で勝負しているのは生徒たちだけではないと、改めて思わせてくれる瞬間だった。


そして、甲子園は開場100年に相応しい大会となった。

大社旋風には本当に力をもらった。
特に1番打者の藤原君の足の速さ。彼の今後がすごく楽しみだ。

早実戦はこの先一生忘れることはないだろう。
和泉マジック、おそるべし。
高校野球は間違いなく監督で変わる。これを再認識した。


大体甲子園はテーマソングが名曲かどうかでその大会がどうなるかわかる。
ねごと。がテーマソングに決まり、歌詞や一連の騒動を見て落胆したのを覚えている。

今年は史上初めて、テーマソングを超越した大会だったと思う。
高校球児は「好きだから」という一言では語り尽くせない思いを持って戦っている。

その必死な姿に大人達は今の自分を重ね、「このままでいいのか?」と自問自答する。
年下の人間から、高校生という存在から、人として大切なことを再認識させられる。
高校野球を見る人たちも、単に「好きだから」みているのではない。と思う。

甲子園が終われば、それは夏の終わりだ。
彼らの様に一生懸命生きて、来年も健やかに生きる自分がいることを願う。

最後に。

今年の神奈川大会、近所の公立校に彗星のごとくドラフト候補の投手が現れた。
その高校が負けた数日後、何気なく行きつけのジムを訪れたらその子が友達とトレーニングをしていた。

ジムの大人でも中々持ち合わせない骨格の持ち主。これはプロに行く器だと思った。
そして何より、本当に自分の夢をかなえるために鍛錬を積み始めている姿に感動した。

彼がプロに行けることを願う。


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