
表現と個性
真理は確実に非-個人的、非-個性的であるが、21世紀の日本に存在するこの名と形と個性、能力を持った媒体/道具を通してしか表現できないこともある。
noteで記事を投稿するようになってから、もやもやしたものがあったのは、義務感があったことのほかに、内側にあるものを出し惜しみ、制限しているからであることに気がついた。どこかで読む人の理解度やレベルを考慮したり、すべての人に理解されたいという(実現不可能な)思いもあった。noteではなくほかのブログに移行したところで、そうした思いがあれば結局は同じことであるため、そのような思いや欲求もまた、手放していきたい。
ふと、なぜか哲学者ヴィトゲンシュタインのことを思い出し、彼のことを検索していると、こんな言葉に出会った。
「これをやったらこういう結果になる、という因果の法則なんてものは存在しない。 わたしたちが原因と呼んでいるものは、すべて勝手に決めた仮説だからだ。一つの原因が必ず特定の結果を生むことはない。 あることを行ない、それがどういう事態を生むかは前もって知ることなどできはしない。何でも起こりえる。また、何も起きないこともある。 だから、行動することに怖じ気づくな。心配するな。果敢に行なえ。行なわないで悔やむよりはずっとましだ。」
因果関係などない、怖気付くなという、ブッダや真理の教えに通ずる彼の言葉に励まされた。また、かつて哲学の本などを読みあさっていたとき、彼の真摯で質素で型破りな生き方にとても共感や親近感を覚えていたことを思い出した。
人間としての未解決の弱さや痛み、未熟さも正直に表現し(そして可能な限り手放し)、一般的には理解されないと感じる内なる気づきも恐れることなく表現し、描写していければと感じる。そのすべてが、何かしらのきっかけ/喚起になればいい。たとえば私が人間的でエゴ的なことを表現したとしても、それを目にした人が抱えている似たようなそれに気づくきっかけになればよいのだから。どのみち、響く人に響き、届く人に届けばよいのだ。
私は昔から、アーティストや音楽家でも、発明家や建築家でも、思想家や哲学者でも、聖人や聖者でも、型破りで、“常軌を逸した”人物にシンパシーを感じていた。それは、自らも“そちら側”の人間であり、そうありたいという願望の表れだった。
たとえば、好きなミュージシャンのアルバムの全曲や、アーティストの全作品が気にいるということはなく、はじめから終わりまで役に立ったり、共感できる本というものもない。受け手ではなくアーティスト自身が、自らの作品が気に入らないということもよくある。どんな形であれ、表現したり伝える側、アーティストの宿命とはそういうもので、これまでもこれからも変わらないだろう。
唯一、特に反応がないこの記事を読み返してみると、霊的なエクスタシーの状態のときに書いたため、やや極端な表現になっていた(それもひとつの表現であるため、手を加えず残しておく)。
落ち着いた状態で気づくことは、思えば、昔はさんざんいろんな曲を聴いたり歌ったりしていたし、この人生で何千曲もの音楽を聴いてきた。
歌ったり感動することは、抑圧された感情を表現し、解放することにも役立つ。私も、モーツァルトのすべての曲が好きなわけではないし、クラシック自体、気分が乗らないときは聴かない。
広い視野から見ると、苦しみや絶望の渦中にある人が、高尚でエネルギーの高い音楽よりも、ありふれたポップスやお気に入りの曲に励まされ、慰められることもある。その人の状態や傾向によって、何が役立つかはわからない。とてもいい状態にあるときは──たとえば、ラマナ・マハルシの言葉や、バガヴァッド・ギーター、波動の高い音楽などに感化されたり同調できても、そうしたものとはあまりにかけ離れた低いエネルギーの状態や気分にあるときは、それらはあまり役に立たない。それよりも、娯楽的な映画や動画、自然や人を追ったドキュメンタリー、気分がやわらぐ言葉やエッセイ、漫画、散歩やドライブ、好きな食べ物などが、気分やメンタルを引き上げてくれることもある。本質的には、そうしたすべても神であり、その人がそのときどきに最善となるものを知っており、与えてくれている。「母なる神は、愛するわが子のお腹に合うものをご存じであり、与えてくださる」というようなことを、ラーマクリシュナも言っているように。
私は気質や傾向的に、ふるゆわきらきら系のことが書けないし、もともと好きではなかった。だが広い目で見れば、真理はそれも包含しており、そうした形の表現がきっかけや癒しになる人もいるのだから、判断すべきではないことがわかる。しかし、表現の形態が何であれ、偽りは偽りなので、“識別”は必要だ。