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【 読書感想文 】『 聖痕 』神話と自然主義を合体させようと試みた実験小説

筒井康隆氏は、神話を書いた。
いや、日本人がのぞむ救世主の姿を書きだそうとした。
戦前から令和の時代を駆けぬけた、いや、書けぬけた筒井康隆氏だからこそ書けた小説『 聖痕 』
フライの『 批評の解剖 』には、物語は神話からはじまり、神話にかえると書かれている。
また、このようにも書かれている。

神話は文学的な構想の一方の極みだし、自然主義はもう一方の極みなのだ

批評の解剖

一方の極みである神話を書きながら、一方の極みである自然主義をも、ひとつの小説のなかに組みこもうと試みた実験小説といえる。
日本のいにしえの文学は、自然主義である。
貴族が愛をうたいあげる短歌。自然を賛美する短歌。
自然主義の極地ともいえる短歌につかわれていた枕ことば。
いまの現代人であれば、つかうことのなくなった枕ことばが、小説のなかに散りばめられている。
その枕ことばの意味は、わからない。けれども、自然に心に、脳に、言葉の響きがしみこんでくるのである。
カエルが水に飛びこむ音すらを忘れた現代人。
それでも、蛙飛びこむ音と読めば、心に波紋がたつ。
宝もののように文章にひきしめられた枕ことばは、日本人がもっていた雅な語感を読みがえらせてくれる。

そして、ところどころに文語体をはさみ、格調たかい聖書のような趣をあたえてる。
おそらく半世紀、いや、もっとはやく文語体は消えさると思う。
漢詩や論語をまなぶ意味があるのか、古語をまなぶ必要があるのか、そのような意見が蔓延しているいまの世。
文語体や古語が消えはててしまうのはもったいないと思っている。
ならば、文語体を勉強して書けといわれるだろうが、文語体を勉強する術がわからない。
『 戦艦大和の最後 』や荘子や韓非子は読んだが、文語体は書けない。
筒井康隆氏は、やすやすと文語体を書かれる。
知識の豊富さ、文章にたいする感覚に脱帽するとどうじに、胸の奥に嫉妬の炎がともる。
筒井康隆氏も文語体や枕ことばが消えるのはもったいないと思った。
なので、小説のなかに文語体や枕ことばを忍ばせたのではとかんがえた。
意味がわからんと放りなげるだけでなく、声にだし読み、語の響きをたのしんでもらいたい。

日本人は、あまり神をたよらない。クリスマスや初詣、受験時ぐらいだろうか。
筒井康隆氏は、第二次世界大戦を経験し、オイルショックやバブルの崩壊、そして、二度の地震を体験した。
明るい筒井康隆氏ではあるが、身内の不幸もたくさん経験されている。
そして、小説の最後のほうで原発の事故がおこる。
筒井康隆氏は、日本は滅びる、と予感しているように思われる。
物語の最後に批評家の言葉を借り、その予感をかたっている。
そして、滅びはまぬがれない。
であれば、日本人にミートするような救世主の形とは、それを一生懸命にかんがえられた。

救世主の形を考えぬいた結果。
チンコをとった。
男の象徴である、イチモツを主人公からとりさった。

じつは『 聖痕 』を読む気はなかった。
チンコをとったシモネタな小説だと思っていたからだ。
さにあらず、この『 聖痕 』は、高尚にして、誠実であり見事な小説だった。
チンコがある、だから煩悩がある。
物語の装置としてチンコはとりさる必要があったのだ。
チンコをとりさることで、煩悩からときはなたれた主人公は、ひとを超越した神域に達する。
けれども、俗世にまみれて、一般人として生きなければいけない。
さまざまな事件に悩まされ、苦しめられる、そのたびに、おのが才覚を駆使する。もしくは、まわりの優しいひとのおかげで、危機をだっし、そして、主人公は救世主へといたる。

主人公は性への煩悩はない。
けれども、他人にまで性をいたすなとはおしつけない。
むしろ、もっと性をみな謳歌しないさい、とすすめるさまは、文章のなかで、いにしえ性の生活を紹介した紫式部のようである。
つまり、筒井康隆氏は現代の紫式部といえる。

性と食欲は両立しない、といわれている。
主人公から性欲をぬいた。そのぬけた欲に食欲をぴたりとハメこみ、小説のなかに落としこんでいる。
筒井康隆氏が、心理学や哲学の本を読まれていたのは知っていた。
けれども、サヴァランの『 美味礼賛 』だけでなく、『 美味求心 』までを読まれているとは思わなかった。
日本中だけでなく、世界中のおいしい料理が紹介され、また主人公は鋭敏な舌をもち、そのレシピを再現し、料理をふるまうのをこのむ。
それがこうじて、レストランをひらき、さまざまな料理が小説には登場する。
欲をいうならば、その料理の味を綿密にねっとりとした筒井康隆節の文章でめいっぱい食べたかった。
そして、『 美味求心 』で紹介されている美味のいくつかは、いまの日本では味わえない。
『 美味求心 』だけでなく、魯山人も檀一雄も絶賛した、ツグミの脳みその味をいまの日本人は味わえない。

料理の味や香りまでを、しっかりと書いていてはページ数が膨大になるから省略されたのであろう。
『 聖痕 』は、昭和から平成までを書いている。
それだけの悠久の時を書いたのであれば、膨大なページ数の小説になるじゃんと思われ、敬遠されるかたもいらっしゃるでしょう。
さにあらず、しっかりと文庫本一冊のページ数でまとまっている。
話の核はしっかりと描き、そのほかを圧縮してしまう、筒井康隆氏の要約の妙がひかる。
筒井康隆氏が影響されたといわれる『 百年の孤独 』や『 族長の秋 』など長い歴史を書いているが、文庫本のページ数の範囲におさめられている。
だらだらと長い小説は、だれてしまうおそれがある。
長い歴史を書きながらも、文庫本一冊の範囲におさめる要約力、お見事。
井上ひさしファンには怒られるだろうけども、『 吉里吉里人 』を読んだときは、もう勘弁してくれと思いながら最後まで読みつづけた。
読みおわった瞬間、やっとおわったと安堵した。
そのような想いをしない、『 聖痕 』は。
小説だけでなく、漫画にも要約力は必要だと強くおもった。
50巻の漫画とか、100巻もつづく漫画とか、読む人間もういなくなるで。

おそらく、滅びにむかいつつあろう日本。
滅びをどのようにむかえるのか、『 聖痕 』を読むと心づもりができる。
ひとをゆるし、おいしいものを食べる。
そして、性を謳歌するか、チンコを切るか。

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