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【題名】「レストラン――秋雨の山荘にて」 


要約


この物語は、山深い場所に現れ、奇妙な「注文」を通じて客から外界的な装飾を剥ぎ取り、純粋な空腹感と食への尊さを呼び覚ます不思議な「注文の多いレストラン」をめぐる体験談である。


フリーライターの高橋と写真家の山岸は、美食特集の記事取材で秘境のレストラン「グラン・オーダー」を訪れる。そこでは、靴やコート、時計や言葉までも要求され、全てを剥がされた末に、平凡な山菜料理を極上の恵みとして味わう奇妙な体験をする。しかし、店の所在は曖昧で、後日同じ場所に行っても見つからず、撮った写真は不鮮明、周囲の人々にもその実在は確かめられない。


だが、戦後間もない時代に同様の体験をした朝比奈や、民俗学研究者からの伝承を通じて、彼らはこの店が「山の精霊」や「食の本質」を示すための空間であることを知る。それは時代や地域を超えて現れ、人間が忘れがちな「食べる」という行為の根源的な意味を呼び覚ます試練の場であった。


再び挑戦した彼らは、より少ない所持品と純粋な心境で再来訪し、今度は余計な「注文」なしに一切れのパンを与えられ、その簡素な一皿を深く味わう。店の給仕らしき存在は、店が幻でありながら人々の内なる必要に呼応して現れること、食べる行為の尊さを思い出させるためのものであることを告げて姿を消す。


物語は、店の正体が解明されないまま、人々の心に「食べることへの原初的な意義」を刻み込み、その記憶や感覚が記事や写真を通じて他者へと伝わっていく様子を描いて締めくくられる。食事を当たり前に消費する日常に、ふと立ち止まり、噛み締める瞬間を生むきっかけとして、この「レストラン」は静かに存在し続けるのである。







物語


山深い土地の、ひっそりとした山荘街に一軒のレストランがあった。店の名は「グラン・オーダー」。周囲を紅葉に包まれた山々がぐるりと囲み、長い未舗装の道の奥に佇んでいる。訪れる者は少なく、その存在は一部の美食家や旅人たちに口伝えで伝わる程度だった。


 ある年の十月下旬、都心でグルメ記事を書くフリーライターの青年・高橋と、写真家の友人・山岸がその店を訪れることになった。二人は新たな特集記事「秘境グルメ巡り」の第一弾として、この店の噂を聞きつけてやって来たのである。店には料理人も給仕もほとんど姿を見せず、来客が自ら扉を開け、奥へと進んでいく仕掛けがあるという。さらには「客が入口から出口へたどり着くまでに、幾つもの『お客様へのお願い』が掲げられ、それを守らなければ料理を味わえない」という奇妙なルールがあるらしい。


 高橋と山岸はレンタカーを山道に停め、霧のような小雨がたちこめる中、重い木製の扉を押して店内へ足を踏み入れた。中は明かりが薄暗く、ロウソクが揺らめく影絵のような空間が続く。最初のホールを抜けると、白いパネルが目に入った。そのパネルには金色の文字でこう記されていた。


 ――「お客様へ。ここはご自由にお進みください。ただし、ご不安な方は靴をお脱ぎになり、こちらのスリッパに履き替えていただけますと幸いです。」――


「靴を脱げってのか。変な店だな。」と山岸は苦笑したが、高橋は興味深そうにスリッパへ足を入れた。足元はふかふかの赤い絨毯で覆われている。


 二人がさらに廊下を進むと、また別の看板があった。


 ――「お客様へ。お肌の乾燥を防ぐため、どうぞこちらの化粧水をお顔にお付けください。」――


「こんなレストラン、聞いたことないな。」高橋は戸惑いつつも、備え付けの小さなガラス瓶を手に取る。化粧水は無香料ながら、なんとも豊潤な潤いを感じさせた。二人は互いに顔を軽く湿らせ、再び歩みを進める。


 その先にはいくつもの部屋が繋がっているらしく、扉ごとに異なる「お願い」が書かれたプレートが掛けられていた。


 ――「コートをお脱ぎください。」

 ――「お帽子を取っていただけますか。」

 ――「気になさいませんでしょうから、お手もとの時計は外してお預けください。」

 ――「お連れ様同士、どうぞ無言でお進みください。」――


 二人は次第に奇妙な緊張感に包まれていった。最初は半ばおもしろ半分で従っていた指示も、ひとつずつ守るたびに、身につけていた外界とのつながりが剥がれ落ちていくような感覚を覚える。靴、コート、帽子、時計、そして言葉までも。この空間は彼らから徐々に「何か」を奪い、純粋な「食べる存在」へと変貌させようとしているかのようだった。


 遂に最後の扉へとたどり着いた。その扉には奇妙な文章が踊っている。


 ――「お客様へ。これより先へお進みになれば、最高の一品をお出しいたします。ただし、その前に皆様の『名前』をこちらの台帳に記入なさってからお入りくださいませ。」――


 名前までも差し出すように求められるとは、と高橋は息を飲む。だが、ここまで来て引き返す気にはなれなかった。二人は震える手で台帳に自分の名を記し、扉を開く。


 そこは広間だった。かすかなピアノの旋律が聞こえ、正面には長テーブルが一つ。テーブルクロスは深い緑色で、中央には輝くシルバーのドーム型カバーが鎮座している。室内に人の気配はない。高橋と山岸はイスに腰掛け、息を呑むように静かに待った。


 すると、天井裏からするりと下りてきたのは、黒いタキシードを着た痩せぎすの給仕。いつそこに隠れていたのか、彼は恭しく一礼すると、ドーム型カバーを外した。その瞬間、二人は目を見張る。そこにあったのは実に美しい仔鹿のロースト……ではなかった。皿の中央には白い紙片が一枚、何も載せられていない。


 給仕は紙片を拾い上げ、朗々とした声で読み上げた。


 「お客様方、ようこそおいでくださいました。ここは“注文の多いレストラン”――ええ、私どもは文字通り多くの注文を出させていただきました。靴を脱ぎ、肌を潤し、服を脱ぎ、言葉を失い、名前さえ預かった。その意味をおわかりでしょうか?」


 高橋と山岸は、言葉が出ない。二人はふと、自分達がすっかり無防備な存在に成り果てていることに気づいた。心細さと不安が胸を刺す。その時、給仕は微笑み、もう一度深くお辞儀した。


 「ご安心くださいませ。本日、ご用意する最高のお料理は『空腹』でございます。あなた方は充分に『食べる準備』ができた。欲しいものは何でしょう? 私どもが与えたかったのは、食べるための正当な飢えと、美食への心構えです。では、こちらへ……」


 給仕が背後のカーテンを引くと、そこには実に素朴な山菜料理が並んでいた。香り高い茸のポタージュ、薪窯で焼いたパン、渓流で獲れた小魚の燻製、素朴なジャガイモのロースト。どれも決して豪華ではないが、奥深い味がするに違いない、そんな予感が立ち込める。


 高橋と山岸は、なぜか涙が出そうなほど、これらの料理が恋しく感じられた。自分たちから奪われたと思っていたものは、実は「こだわり」や「先入観」だったのかもしれない。この静かな山中のレストランは、いくつもの「注文」を通じて、彼らに純粋な「食の喜び」を取り戻させようとしていたのだろう。


 外へ出る頃には、雨はすでに上がっていた。二人は自分たちの荷物や服、そして名前を取り戻し、再びレンタカーへと戻る。振り返れば、あの店はしんと静まり返り、また深い緑と紅葉の合間に溶け込んでいる。


 高橋がハンドルを握り、山岸はカメラを袋にしまいながら訊ねた。「なあ、高橋……俺たち、ちゃんと食べること、わかってなかったのかもな。」


 高橋は笑みを浮かべて頷いた。「ああ、記事にまとめるのが楽しみだ。あの空腹と、あの味の意味を、どう書けばいいのか……」


 こうして二人は静かに山道を下っていった。

 “注文の多いレストラン”は、今日も訪れた者を静かに迎え、見送っているのかもしれない。


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