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パントマイムの起源はどこに!?古代ギリシャに眠る沈黙の源流

こんにちは、芸能事務所トゥインクル・コーポレーション所属、パントマイムアーティストの織辺真智子です。

今日は、芸術の世界で独特の魅力を放つパントマイムについて、その深遠な起源を探る旅にお連れしたいと思います。

パントマイム――言葉を使わず、身振りと表情だけで物語を紡ぎ出す、この神秘的な表現芸術。その発祥の地をご存知でしょうか? 多くの方は、近代のフランスやイタリア、あるいは20世紀のアメリカを想像されるかもしれません。しかし、驚くべきことに、パントマイムの根は遥か古代にまで伸びているのです。

そう、私たちの旅は古代ギリシャへと遡ります。青く輝くエーゲ海に囲まれた島々や、神々の住まうオリュンポス山のふもとで、パントマイムの種は蒔かれたのです。

今日は、タイムマシンに乗って古代ギリシャへ旅し、その豊かな舞踊芸術文化を紐解きながら、パントマイムの誕生の瞬間を探っていきましょう。壮大な神話や英雄譚、そして日々の生活の中で、古代ギリシャの人々がどのように身体表現を発展させ、やがてパントマイムへと昇華させていったのか。その過程は、まさに人類の表現欲求の進化そのものとも言えるでしょう。

さあ、準備はよろしいですか? 古代ギリシャの劇場や広場、そして神殿へと、想像の翼を広げて飛び立ちましょう。パントマイムの源流を求めて、時空を超えた旅が今、始まります。

レッツゴーーーー!

ミノア文明:舞踊の起源

私たちの旅は紀元前2000年頃(現在からおよそ3000年〜4000年前)から始まります。エーゲ海に浮かぶクレタ島を中心としたミノア文明が、ギリシャ舞踊の発祥地と考えられています。

ミノア文明はヨーロッパ最古の文明といわれていて、開放的な宮殿建築や、豊かな芸術作品(特に壁画)で知られています。宗教的な儀式や祭りが重要な役割を果たしており、特にダンスや音楽が盛んでした。この時代のミノア文明の芸術や文化が、後のクラシカルなギリシャ舞踊の形成に大きな影響を与えました。

クレタ島で発掘された壁画や彫刻には、すでに洗練された舞踊の様子が描かれています。特に有名なのは、「踊る女性」と呼ばれるフレスコ画です。優雅に舞う女性の姿は、当時の舞踊文化の高度な発展を物語っています。

その後、約前1600年から前1100年頃にかけては、ペロポネソス半島のミケーネを中心に栄えたミケーネ文明が形成されました。

ミノア文明の開放的で芸術的な特性は、後のミケーネ文明における戦士的で構造的な文化に影響を与え、古代ギリシャの文化の基盤を築くことに寄与しました。

暗黒時代:舞踊の基礎形成

紀元前12世紀から紀元前8世紀にかけての暗黒時代。ミケーネ文明の崩壊後、古代ギリシャは混乱と停滞の時代を迎えました。文字の使用が失われ、多くの文化的発展が停滞したこの時期ですが、興味深いことに舞踊の基礎はしっかりと築かれていたと考えられています。

この時代、口承で伝えられた神話や伝説が、後の舞踊の題材となりました。また、共同体の結束を強める手段として、集団での舞踊が重要な役割を果たしていたとも考えられています。

アルカイック期:ポリスの発展と舞踊

紀元前8世紀から紀元前6世紀のアルカイック期には、アテネやスパルタなどのポリス(都市国家)が形成されました。この時期には文化的な発展が顕著に見られ、ギリシャ文字の完成やホメロスの叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』の成立、さらにはオリンピック競技の開始などが挙げられます。

舞踊もポリスの一部として進化を遂げ、特にスポーツとの関連が深まりました。例えば、スパルタでは若者の教育の一環として、武術と舞踊が密接に結びついていました。これは後の「ピュリケー」と呼ばれる戦いの舞踊につながっていきます。

また、この時期には宗教的な祭りと舞踊の結びつきも強くなりました。特にディオニュソス神の祭りでは、熱狂的な舞踊が行われ、これが後の演劇の発展にも大きな影響を与えることになります。

古典期:舞踊と演劇の融合

紀元前5世紀から紀元前4世紀の古典期は、古代ギリシャ文明の最盛期でした。ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの偉大な哲学者たちが活躍し、ペルシア戦争やペロポネソス戦争などの歴史的な出来事がありました。この時期、舞踊は宗教的儀式から芸術的表現へと進化し、演劇作品の一部として重要な役割を果たすようになりました。

特筆すべきは「ディテュランボス」の発展です。これは祭壇を囲んで行われる円形舞踊で、ディオニュソス神崇拝の儀式から生まれました。ディテュランボスは、後のギリシャ悲劇の合唱隊の原型となり、演劇と舞踊の融合の礎を築きました。

また、この時期には舞踊、音楽、詩が「ムーシケー」(ムーサの芸術)として一体のものと捉えられるようになりました。ムーサとは芸術の女神たちのことで、彼女たちにちなんで名付けられたこの概念は、芸術の総合的な理解を示しています。この統合的な芸術観は、後の西洋芸術に大きな影響を与えることになります。

古典期の舞踊は、その表現力と技巧の高さから、教育の一環としても重視されるようになりました。プラトンは『法律』の中で、舞踊教育の重要性を説いています。彼は、舞踊が身体の優美さだけでなく、魂の調和をも育むと考えていました。

ヘレニズム時代:舞踊の多様化

紀元前4世紀から紀元前146年のヘレニズム時代には、アレクサンドロス大王の東方遠征によってギリシャ文化が広く伝播し、舞踊文化も多様化しました。

この時期、ギリシャの舞踊は東方の影響を受けて、より華麗で技巧的なものになっていきました。特に宮廷舞踊は、豪華な衣装と複雑な振り付けを特徴とするようになりました。

同時に、民衆の間では様々な社交舞踊が発展しました。宴会や祭りの場で踊られるこれらの舞踊は、より自由で即興的な性格を持っていました。

パントマイムの萌芽

興味深いことに、古代ギリシャの舞踊には、後のパントマイムにつながる模倣的な要素が見られます。プラトンは「純粋な模倣であり、歌や詩の表現に合わせて調整される」舞踊の形態について言及しています。

これは、言葉を使わずに物語や感情を表現するパントマイムの原型と言えるでしょう。舞踏家は、身振りや表情だけで神話の一場面や英雄の物語を表現することがありました。この表現方法は、言語の壁を超えて観客に感動を与えることができ、後のローマ時代に大きく発展することになります。

プロの舞踏家の誕生

紀元前5世紀頃には、アマチュアとプロの舞踏家の区別が生まれました。プロの舞踏家(多くは奴隷や外国人)が様々な行事で雇われるようになり、舞踊が専門的な技術として認識されるようになりました。

これらのプロの舞踏家は、宗教祭礼や演劇公演、さらには私的な宴会など、様々な場面で活躍しました。彼らの中には、特定の役柄や表現方法に特化した者もいました。例えば、ディオニュソス祭の劇場公演では、サテュロス(森の精)を演じる専門の舞踏家がいました。

ローマ時代以降の影響

紀元前146年、ローマによるコリントス征服で古代ギリシャの独立した文化は終わりを迎えましたが、その舞踊文化はローマ帝国全体に広がり、さらに発展を遂げました。

このように、古代ギリシャの舞踊は長い歴史を通じて進化し、現代のパフォーマンスアートやパントマイムの根源となっています。その豊かな歴史と多様性は、現代の舞台芸術にも脈々と受け継がれているのです。

ただし、古代ギリシャの舞踊に関する我々の理解には限界があることを付け加えておきましょう。文学作品、美術、考古学的証拠など、多くの情報源がありますが、舞踊が実際にどのように演じられていたかについての詳細は断片的で、解釈の余地が残されています。

それでもこの芸術形式の進化を追うことで、人間の表現欲求の普遍性と、文化の連続性を感じ取ることができます。古代ギリシャの人々が体現した身体表現の芸術は、時代を超えて私たちの心に響き続けているのです。現代のパントマイムやダンスを鑑賞する際には、そこに古代ギリシャの魂が宿っていることを想像してみてはいかがでしょうか。きっと、新たな感動と発見があることでしょう。

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