5世紀から8世紀、時代の荒波に揉まれるパントマイム
こんにちは、芸能事務所トゥインクル・コーポレーション所属 パントマイムアーティストの織辺真智子です。
今日は古代ローマ帝国が終わっていく紀元5世紀から8世紀のお話です。
ローマ帝国で大人気だったパントマイムがどのような経緯をたどっていったのか、その苦難の歴史をみなさんと一緒にみていきたいと思います。
西ローマ帝国の崩壊とともに、ヨーロッパは大きな転換期を迎えていました。古代の文化遺産が徐々に姿を消し、新たなキリスト教文化が台頭する中、古代ローマの娯楽文化の重要な一部を形成していたパントマイムという芸術形態は、その存続をかけた静かな闘いを始めていました。
古代の伝統を色濃く残すこの芸術は、キリスト教の価値観と時に衝突し、また時に融合しながら、その姿を変えていくことになるのです。
では、この激動の時代にパントマイムはどのような変遷を遂げたのでしょうか。
今回は、5世紀〜8世紀のパントマイムの世界に踏み込み、その豊かな表現と、時代の荒波に揉まれながらも生き残ろうとする芸術の姿を探っていきましょう。古代と中世の狭間で、パントマイムが織りなす無言の物語の世界へ、皆様をご案内いたします。
5世紀、古の記憶が躍動する広場
5世紀のパントマイムは、古代文化の遺産を体現しつつ、新たな時代の変化に適応しようとする過渡期の芸術でした。その普遍的な表現力は多くの人々を魅了し、社会的にも重要な役割を果たしていました。しかし同時に、新たな宗教観との軋轢など、困難にも直面していました。この時期のパントマイムの姿は、芸術が社会変化の中でいかに生き残り、変容していくかを示す興味深い例と言えるでしょう。
5世紀初頭、都市の広場や市場では、無言の物語を紡ぐ芸人たちの姿が日常的に見られました。彼らの演技は、言葉の壁を超えた普遍的な言語として、貴族から庶民まで様々な階層の人々を魅了しました。
この時期のパントマイムの特徴として、まず神話や歴史的出来事を題材にした物語性の高い演目が挙げられます。例えば、「オルフェウスとエウリュディケー」の悲恋や、「トロイア戦争」の英雄譚などが人気を集めていました。これらの物語は、誇張された表情や大胆な身振りを用いた表現技法によって観客に伝えられました。額を皺めて怒りを表現したり、胸に手を当てて悲しみを示したりと、芸人たちは全身を使って感情を表現しました。
また、パントマイムの魅力の一つは、その即興性の高さにありました。芸人たちは観客の反応に応じて内容を変える柔軟性を持ち、時には観客を巻き込んだ演技を行うこともありました。さらに、簡単な楽器や小道具を使用した視聴覚的な演出も、パントマイムの魅力を高める要素でした。笛や太鼓のリズムに合わせて踊ったり、色鮮やかな布を使って場面転換を表現したりと、芸人たちは限られた手段で最大限の効果を生み出そうと工夫を凝らしていました。
しかし、この時期のパントマイムは、新たに台頭してきた教会からの批判にも直面していました。特に、古代の神々を題材にした演目や、性的な表現を含む作品は、キリスト教の道徳観に反するとして厳しい非難を浴びることがありました。例えば、「ウェヌスとマルス」の不倫を描いた演目は、しばしば教会の指弾の的となりました。
この時代、旅芸人たちにとってパントマイムは生活の糧であると同時に、自己表現の手段でもありました。彼らは町から町へと渡り歩き、その土地の人々の好みに合わせて演目を変化させていきました。時には危険な旅路や、不安定な収入と闘いながらも、芸人たちは自分たちの芸術を守り、発展させることに情熱を注いでいました。
一方、庶民にとってパントマイムは、日々の労働から束の間の解放を与えてくれる貴重な娯楽でした。言葉を必要としないパントマイムは、識字率の低かった当時の庶民にとって、物語や思想に触れる数少ない機会の一つでした。市場や祭りでのパントマイム公演は、コミュニティの結束を強める社会的な機能も果たしていました。
信仰と娯楽の綱渡り
6世紀に入ると、キリスト教の影響力が増す中、パントマイム芸人たちは巧みな適応を見せ始めます。この時期、聖書の物語や聖人伝を題材にした演目が増加しました。例えば、「放蕩息子の帰還」は、父親の無条件の愛と許しを身振りで表現する人気の演目となりました。また、「ダビデとゴリアテ」の物語は、小さな羊飼いが巨人を倒す様子を劇的に描き、観客を魅了しました。
宗教的な祭りや巡礼の場でもパフォーマンスが行われるようになり、パントマイムは単なる娯楽以上の意味を持つようになりました。例えば、聖マルティヌスの祝日には、マルティヌスが自分のマントを貧者に分け与える場面が演じられ、慈愛の精神を視覚的に伝えました。
しかし、教会の態度は依然として二面的でした。パントマイムが信仰を広める有効な手段になり得ると考える聖職者もいれば、その世俗的な要素や古代の伝統との結びつきを危険視する者もいました。トゥールのグレゴリウスのような影響力のある聖職者は、パントマイムを含む世俗的な娯楽を厳しく批判しています。
この時期、旅芸人たちは新たな挑戦に直面しました。彼らは教会の教えに沿った内容を演じることで生き残りを図る一方で、観客を楽しませるという本来の目的も果たさなければなりませんでした。多くの芸人たちは、聖書の物語に古典的なパントマイムの技巧を組み合わせることで、この難題に対処しました。例えば、「ノアの方舟」の物語を演じる際には、動物たちの動きを滑稽に表現することで、教訓的な内容に笑いの要素を加えました。
庶民にとっては、この変化は両義的なものでした。一方では、娯楽の選択肢が制限されることへの不満がありましたが、他方では、パントマイムを通じて宗教的な物語に親しむ機会が増えたことを歓迎する声もありました。特に、文字を読めない人々にとって、パントマイムは聖書の物語を理解する貴重な手段となりました。
民衆の魂を映す鏡
7世紀になると、パントマイムは徐々に中世特有の形態へと進化していきます。古代の神話的要素は更に減少し、代わりに当時の社会を反映した題材が増加しました。例えば、「貪欲な地主と賢い農夫」という演目では、農民の機知によって地主の不当な要求をかわす様子が演じられ、観客の共感を得ていました。
風刺や社会批評の要素も強化され、パントマイムは民衆の声なき声を代弁する役割も担うようになりました。「正直な職人と不誠実な商人」といった題材は、当時の社会の不公平さを浮き彫りにし、観客に考えるきっかけを与えました。
また、この時期には地域ごとの特色も強まっていきます。ブリテン島では、ケルトの伝説を題材にしたパントマイムが登場し、大陸とは異なる発展を見せました。例えば、アーサー王伝説の一場面を演じるパントマイムは、地域の人々のアイデンティティを強化する役割も果たしました。
この時期、パントマイムは祭りや市場だけでなく、時には宮廷でも上演されるようになります。メロヴィング朝のフランク王国では、宮廷の祝宴でパントマイムが演じられることがありました。例えば、クロヴィス2世の戴冠式では、フランク族の歴史を描いたパントマイムが上演されたという記録が残っています。
旅芸人たちにとって、この時期は機会と挑戦の時代でした。宮廷での上演は高い報酬をもたらす可能性がある一方で、貴族の趣向に合わせた洗練された演技が求められました。多くの芸人たちは、伝統的な技術を磨きつつ、新しい表現方法を模索しました。例えば、より複雑な物語を表現するために、複数の演者が同時に演じる集団パントマイムの技法が発展しました。
庶民にとって、この時期のパントマイムはますます身近な存在となりました。自分たちの日常生活や悩みが演目に反映されることで、パントマイムは単なる娯楽以上の意味を持つようになりました。市場でのパントマイム公演は、しばしば社会的な議論の場ともなり、コミュニティの結束を強める役割を果たしました。
新たな表現への胎動
8世紀に入ると、パントマイムは更なる変容を遂げます。キリスト教の教えと古い伝統が融合し、後の中世演劇の萌芽となるような新しい形式が生まれ始めました。例えば、復活祭や降誕祭に関連した短い演劇的場面が教会の中で演じられるようになり、これらにパントマイムの要素が取り入れられました。「三王の礼拝」や「最後の晩餐」といった場面は、言葉と身振りを組み合わせた新しい表現方法で演じられるようになったのです。
しかし同時に、純粋な形でのパントマイムは徐々に姿を消していきます。教会の規制が厳しくなる中、多くの芸人たちは他の職業に転向するか、より受け入れられやすい芸能へと移行していきました。特に、カール大帝の時代には、異教的な要素を含む芸能に対する取り締まりが強化され、パントマイムは更に厳しい状況に置かれることとなりました。
この時期、旅芸人たちは大きな岐路に立たされました。一部の芸人たちは教会の庇護下に入り、宗教劇の一部としてパントマイムの技術を生かす道を選びました。例えば、「アダムの劇」と呼ばれる12世紀の作品では、セリフを持つ役者とパントマイムの演者が共演し、新しい形の演劇を生み出しています。
一方で、世俗的な題材を守り続けようとした芸人たちは、より厳しい状況に直面しました。彼らの多くは、より受け入れられやすい芸能、例えばジャグリングや曲芸などに活動の場を移していきました。しかし、そうした中でも、パントマイムの技術や精神は密かに受け継がれ、後のコメディア・デラルテなどの芸能形態に影響を与えていくこととなります。
庶民にとって、この変化は娯楽の形態の変化を意味しました。教会が主導する演劇が主流となる中で、以前のような自由な表現を楽しむ機会は減少しました。しかし、新しい形の宗教劇の中にも、パントマイムの要素は生き続け、庶民の想像力を刺激し続けました。例えば、「悪魔」や「死」を演じる無言の役者は、しばしばパントマイムの技法を用いて観客を魅了しました。
形を変えて生き延びるパントマイム
5世紀から8世紀にかけて、パントマイムは激動の時代を生き抜き、その姿を大きく変容させていきました。この期間は、古代ローマの伝統とキリスト教文化が交錯する複雑な時代でした。パントマイムはこの文化的衝突の中で、時に批判の的となり、時に新たな表現の可能性を見出しながら、しなやかに適応していったのです。
さらに時代が下り、ルネサンス期のイタリアで生まれたコメディア・デラルテにも、パントマイムの影響を見ることができます。また、18世紀に誕生したバレエ・ダクシオン(筋立てのあるバレエ)は、パントマイムの伝統を直接的に受け継いでいます。
このように、パントマイムは形を変えながらも、その本質的な精神 - 無言で物語を語り、身体で感情を表現する技術 - を後世に伝えていきました。それは単なる娯楽の域を超え、人間のコミュニケーションの根源的な形を探求し続ける芸術となったのでした。
次回からは、数回に分けて中世初期のダンス、舞踊についてご紹介していきたいと思います。