中世初期、宮廷と民衆のエンターテイメント
こんにちは。芸能事務所トゥインクル・コーポレーション所属、パントマイムアーティストの織辺真智子です。
これまでローマ帝国の舞台や娯楽、パントマイムについてお話ししました。では次は、4世紀から10世紀、つまりローマ帝国崩壊後の中世初期のエンターテイメントにまつわる歴史をみていきましょう。
まずこの時代がどんな時代だったか簡単にご説明します。
「永遠の都」と謳われたローマ帝国。その威光は、やがて時の流れとともに薄れゆく運命にありました。西暦476年、最後の皇帝が退位し、かつての栄華は儚い夢と消えました。しかし、歴史の歯車は一夜にして回るものではありません。
帝国の崩壊後、ヨーロッパの風景は少しずつ、しかし確実に変化していきました。かつての広大な領土は、ゲルマン人たちの手によって小さな王国へと分割されていきます。都市に住んでいた人々は、次第に農村へと移り住み、人々の暮らしぶりも大きく様変わりしました。
貨幣を介した交易は衰え、人々は土地に縛られるようになります。そして、新たな支配者たちの多くは、ローマ人のように文字を操ることができませんでした。しかし、その一方で、キリスト教は着実に力を蓄えていきます。修道院は学問の灯火を絶やすまいと、古の知恵を守り続けました。
東方では、コンスタンティノープルを中心に東ローマ帝国が健在でした。しかし、西方の多くの地域では、騎士と領主、そして農奴からなる新たな社会秩序が形作られていきます。これが後の封建制度の萌芽となるのです。
ローマ人たちが築き上げた壮大な水道橋や舗装道路の技術は、少しずつ忘れ去られていきました。しかし、人々の暮らしに根付いた文化は、ゲルマンの伝統と溶け合いながら、新たな姿へと生まれ変わっていったのです。
この大きな変化の時代は、おおよそ600年もの長きにわたって続きました。歴史家たちは後にこの時代を「暗黒時代」と呼びましたが、それは新たな時代の夜明け前の闇だったのかもしれません。こうして、古代ローマの遺産を受け継ぎながらも、全く新しい中世ヨーロッパの姿が、ゆっくりと、しかし着実に形作られていったのです。
英雄の詩と旋律 - 宮廷の華やかな夜
5世紀から11世紀の初期中世ヨーロッパでは、石造りの城塞や木造の大広間が、貴族たちのエンターテイメントの中心地となりました。この時代の娯楽文化は、ローマ、ケルト、ゲルマンの文化が融合した独特なものでした。
スコップと呼ばれるゲルマンの吟遊詩人は、6世紀頃から宮廷文化の中心的存在として活躍し始めました。彼らは「ヘアルペ」と呼ばれるハープを演奏しながら、「ベオウルフ」のような英雄叙事詩を朗唱しました。「ベオウルフ」は約3,182行からなる長大な物語で、その朗唱には約10時間もかかったそうです。
10時間・・・は長いと思うので、簡単にあらすじを弁説いたします。
えへんえへん!
皆様、お集まりいただき誠にありがとうございます! 本日は、古代英語の叙事詩「ベオウルフ」の物語をご紹介いたします。
むかしむかし、デンマーク王国の宮殿に、恐るべき怪物グレンデルが襲いかかります。それをなんと若き勇士ベオウルフが、素手で立ち向かい、見事打ち倒します!さらに驚くべきことに、その怪物グレンデルの母親まで退治!! なんという勇気、なんという力!
しかし、物語はここで終わりません! 時は流れ、50年の星霜を経て、王様となったベオウルフに、新たな試練が襲いかかります。それは、恐ろしきドラゴン!老いてなお勇猛なベオウルフ、ドラゴンに立ち向かいます! 壮絶極まりない戦いの末、ついにドラゴンを倒すも、ああ、なんという運命でしょう。自らも致命傷を負ってしまうのです。
かくして、英雄ベオウルフ、その壮大なる生涯に幕を下ろします。海に葬られ、その名は永遠に語り継がれるのです!
おしまい!
あらすじにするとこんな感じですが、「ベオウルフ」は中世英文学や文化への影響が大きい作品です。勇気や名誉、運命と死というテーマを深く掘り下げた叙事詩として、そして異教的な要素とキリスト教的な価値観が融合している点で興味深い作品となっています。
宮廷のお抱え芸人:中世を彩るジョグラールの世界
8世紀、フランク王国の宮廷に、色とりどりの音色と笑い声が響き渡りました。シャルルマーニュ大帝の宮廷には、常時20人以上ものジョグラールが仕えていたといいます。彼らの芸は、まさに万華鏡のように多彩でした。
リュートの柔らかな音色、フルートの澄んだ調べ、ハープの優雅な響き。ジョグラールの奏でる音楽は、宮廷を華やかに彩りました。「ローランの歌」のような叙事詩を歌い上げる彼らの声は、時に力強く、時に切なく、聴く者の心を揺さぶります。宮廷愛や騎士道精神を歌った彼らの歌は、貴族から庶民まで、幅広い層の人々を魅了したのです。
しかし、ジョグラールの芸は音楽だけにとどまりません。彼らは即興で詩を詠み、聴衆の反応に合わせて物語を紡ぎ出していきました。英雄叙事詩や民話を朗々と語る姿は、まるで生きた本のよう。時には身振り手振りを交えて、物語をより生き生きと伝えたのです。
そして、観客の目を釘付けにしたのが、彼らの曲芸でした。バランス技やアクロバティックな動き、火を使った危険な技。息をのむような技の数々に、観客からは歓声が上がります。さらに、道化としての演技も彼らの得意技。滑稽な動きやユーモアたっぷりのセリフで、笑いの渦を巻き起こしました。
人形劇もジョグラールの重要なレパートリーでした。小さな人形たちが織りなす物語は、大人も子供も楽しめる娯楽。時には、芸を仕込んだ犬や猿を連れて来て、動物芸のショーを繰り広げることもありました。
12世紀頃、ジョグラールの活動は最盛期を迎えます。トルバドゥールやトルヴェールと呼ばれる宮廷詩人たちと共に、中世の文化を支える大きな柱となりました。彼らは単なる芸人ではありません。口承文学や民間伝承を保存し、次世代に伝える重要な担い手だったのです。
聖と俗の舞台 - 祝祭と放浪の芸人たち
宗教的な祭りは、より大規模な公演の機会を提供しました。9世紀後半から10世紀にかけて、修道院や教会でミステリー劇が生まれ始めました。ミステリー劇は聖書の物語、特にキリストの生涯や聖人の伝記を再現した劇です。14世紀頃からは「モラリティ劇」という道徳的な教訓を伝える劇も生まれ、16世紀ごろまで盛んでした。
そして、中世ヨーロッパの旅芸人は、庶民の娯楽を担う重要な存在でした。彼らは村から村へ、町から町へと移動しながら、様々な芸を披露していました。その芸は多岐にわたり、アクロバット、ジャグリング、動物芸、手品、音楽演奏などがありました。中には、一日に20マイル(約32キロ)以上も移動する芸人もいました。当時は車などの移動手段がない時代でしたので、これは驚異的な距離だったと言えるでしょう。
旅芸人たちのパフォーマンスは、文字の読み書きができない多くの庶民にとって、貴重な情報源であり、また珍しい見世物でもありました。彼らの芸は、日々の労働に疲れた人々にとって、つかの間の安らぎを与える存在でした。
しかし、彼らの人生は決して楽ではありませんでした。旅芸人たちは社会の最下層に位置づけられることが多く、不安定な収入や厳しい生活環境に直面していました。さらに、彼らは時として教会からの非難にさらされることもありました。世俗的な娯楽を提供する彼らの活動は、しばしば「悪魔の仕業」とみなされ、批判や迫害の対象となることがあったのです。
それでも、旅芸人たちの存在は中世社会において重要な役割を果たしていました。彼らは単に娯楽を提供するだけでなく、異なる地域間の情報や文化の伝播にも貢献していました。また、彼らの芸は後の時代の演劇や音楽などの芸術形式の発展にも影響を与えました。
旅芸人たちは、地域によって異なる法律や慣習に適応しながら、常に移動を続けていました。彼らの法的地位は不安定で、多くの場合、定住者と同等の権利を持ちませんでした。しかし、そのような困難な状況にもかかわらず、彼らは自分たちの芸を磨き、人々に笑顔や驚きをもたらし続けたのです。
日常の喜び - 貴族の娯楽と民衆の楽しみ
貴族たちに目を向けてみましょう。彼らにとって狩猟は人気の娯楽でした。ノルマン朝初代イングランド王ウィリアム1世(在位1066-1087年)は、鷹匠長に年俸給与10ポンドと土地を与えました。これは当時の一般的な騎士の年収の約4倍に相当しました。
その他の娯楽
静かな娯楽としては、9世紀頃にイスラム世界を経由して伝わったチェスが人気を博しました。シャルルマーニュの所有していたとされるチェスセットは、象牙製で、最大の駒(王)の高さが約15センチもありました。
民衆の間では、様々な伝統的な祭りが娯楽の機会を提供しました。5月1日のメーデーには、若者たちがメイポールの周りで踊り、収穫祭では豊作を祝う宴会が開かれました。これらの祭りは、コミュニティの絆を強める重要な機会となりました。
中世初期のエンターテイメントと芸術の世界
このように、中世初期のエンターテイメントは、宮廷から民衆まで、実に多様な形態を見せていました。吟遊詩人たちの壮大な叙事詩、ジョグラールの多彩な芸、旅芸人たちの驚きに満ちた演技、そして人々の日常に彩りを添える祭りや遊び。これらは単なる娯楽以上の意味を持っていました。
それは、激動の時代を生きる人々の希望であり、慰めであり、そして自己表現の手段でもあったのです。古代の伝統を受け継ぎながらも、新たな文化との融合を通じて、独自の魅力を持つエンターテイメントが生まれていきました。
しかし、この時代の文化は娯楽だけにとどまりません。信仰と芸術の融合という、もう一つの大きな潮流が存在していたのです。次の章では、その神秘的で荘厳な世界へと目を向けていきましょう。