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ゲームのように楽しい勉強とは(2)
前回、カイヨワの遊びの定義に沿った勉強というものを見てきました。次は以前お話したゲームの楽しさの観点からゲームの楽しさをもった勉強というものを模索していきましょう。ここで今一度、ゲームの楽しさの種類を列挙します。
競争
達成感
身体学習と熟達(思い通りに操作する)
対戦相手との社交
運による意外性
課題設定、解決
シミュレーション
アトラクション要素(臨場感やめまいを覚える演出)
探求や謎解き
アイテム収集
競争
まず競争です。これは簡単に見えるかもしれませんがゲームの楽しさとして考えたときには、公平である必要があります。どういうことかというと「〇〇は何でしょう」という問いに対してその事を知っている方が有利になり、答えられるような問題は公平な競争にならないのです。たとえば国の名前をたくさん言いましょうというゲームがあった時、国の名前をたくさん暗記している人とほとんど知らない人がそれを競い合ったとしてそれをゲームのように楽しめるでしょうか。
その競争となる勉強より前にすでに記憶していることを競わせてもゲームのように楽しい勉強にはならないのです。繰り返しになりますがゲームのように楽しい競争ができる勉強は、公平でなければなりません。もちろん、記憶しているものがまったく同じ人など存在しないので、その記憶の量をそろえることなどできません。ただ「その語彙を記憶しているかどうか」だけを競うのはゲームのように楽しみにくい、という意味です。
達成感
次に達成感です。ゲームの場合、何かを行うたびにいろいろな報酬があります。その報酬はもちろんお金やリアルな物ではありません。ゲームで目標を達成したらお小遣いをあげる、なんて取り決めをしている家庭はありませんよね? 子供たちはゲームの中の「おめでとう」という演出をみて嬉しくなったり、同じくゲーム内のアイテムやポイントを手に入れて嬉しくなったりという内的報酬が目的でゲームに取り組んでいます。
これを勉強におきかえた場合はどうなるでしょうか。勉強の難易度が当人にとってちょうどよく、適度に頭を使って自分で答えを導いたという体験があれば、その勉強に対して達成感を感じるでしょう。
また勉強が終わったら単純に「頑張ったね」と褒められるだけでも内的報酬として嬉しさを感じる子供もいるでしょう。特に低学年の場合そうです。他にも勉強によって知識が増えることを嬉しいと感じて達成感を感じる事もあるかもしれません。
少なくとも、勉強はするのが当然、やらないのはマイナスというように、勉強を強いられる状態では、達成感を得られる機会をひとつ(もしかするともっと)失っていることになります。
身体学習と熟達(思い通りに操作する)
例えばゲームであれば、何度挑戦してもできなかったステージが、何度も挑戦するうちにタイミングを覚えたり、指先の操作の上達したりしてクリアできれば楽しいと感じます。
勉強も同じです。一度挑戦してできなくても、その問題をクリアできるための別の問題が提示されたり、ヒントを教わって自分でできるようになったりすれば、熟達したという満足感と楽しさを得られるでしょう。
もし、問題を間違えたときにただ答えを教えられたらどうでしょう。その問題の正しい答えを書いて終わり、ということになりますが、本人はなぜそれが答えかわかっておらず熟達を感じることができません。正しい答えを書いて宿題は終わって安心するかもしれませんが、本人は自分の力で解いたという熟達の楽しさを感じることはできないかもしれません。
次回は対戦相手との交流など、コミュニケーションに関する話をしたいと思います。