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chatGPT創作と、chatGPT疲れ
このところ毎日のようにChatGPTによる創作物が発表されています。
先週、LINEの調査で、使用したことがあるのは全体で1割もいないとのことでした。
しかし、他のサービスと連携が進み、ChatGPTとして個別にアカウントを取らなくて良くなれば一気に普及は進むでしょう。すでにLINEのbotとして組み込んだ例もあり、そちらも盛況ようです。
https://otona-life.com/2023/03/17/163307/
さて、冒頭に話したようにChatGPTの創作が次々に発表され、そのどれもが面白いです。物語を書かせてみたり、キャラクターを演じさせてみたり、哲学的質問に答えさせたり。
しかし、ここ一週間ほど触れてみて感じ始めたのは「お腹いっぱい」の感覚です。
勘違いしてほしくないのは、どの創作物も間違いなく面白く、対話物も議論物も学びが多いです。読まないのは損だと思えるような哲学対話が繰り広げられる対話物もあります。
どれもこれも素晴らしい。
先々週くらいまではひとつひとつを開いては読み、chatGPTの能力の高さに感嘆していましたが、最近は題名だけ見て開かない、という事も増えてきました。
どれもこれも良いのになぜ読む気にならないのか?この感覚はなんだろうと考えた時に、ああそうだ、本屋の文庫本のコーナーに立った時に似ている、と思いました。
文庫本のコーナーにはたくさんの本が並んでいて、読めば大抵面白い。
でももちろん全ての本を読むことなどできないので、タイトルを、見て気になったのを試し読みしたり、話題の本を読んでみたりします。
ChatGPTの能力は高く、かなりの事ができるという事がわかってしまうと、ChatGPTに物語を作らせた、というくらいでは興味をひかなくなる。
…人の報酬系は怖いですね。同じような刺激だと快感を感じにくくなります。ゲームもそうですが、昨日よりも今日、もっとゲームしたいし、もっと刺激が欲しいってなっちゃうんですね。
閑話休題。
ChatGPTが普及していく中で、きっとそのような「chatGPT疲れ」が、話題になる日が来るでしょう。
そんな中で「chatGPTに指令すれば誰でも得られる創作物に、価値はあるのか」という話が話し合いも持たれる事になると思います。
この話を深めるためには、話し合う者同士が「価値とは何か」という定義を共有する必要があるので、また別の機会にします。
おそらくその話合いを始めると、「同じchatGPTを使っても指令(プロンプト)によって出力が違うのだから、そこに創作者の独自性があり、それが価値である!」といったような主張が出てきそうに思います。
しかしそれは創作なのでしょうか?
例えば現在において執筆家にイメージを伝えて本を書かせる編集者は、創作をしているのか、などこれまでの価値基準を揺るがすような議論が各所で交わされる事になるのではないでしょうか。
誰もがchatGPTで創作ができるようになった今、価値とは何か、創作とは何かについて、改めて考える時代になりそうですね。