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どうして「感想文」はつまらないのか
皆さん、最近感想文を書きましたか?
学生なら、最近書いたよ!と答える人もいるでしょうし、大人でもネットで本のレビューとかいっぱい書いてる!と答える人もいるでしょう。
ここでお話するのは大人になって自由形式で書く読書レビューのような文章ではなく学校教育で書く「感想文」の話です。
つまらなくない!私は学校の感想文書くの好きだった!という人も、是非少しだけお付き合いください。
感想文に潜む暗黙のルール
学校で書く(書かされる)感想文には暗黙のルールがあります。
起承転結とか、序論、本論、結論とかそういうの?と思うかも知れません。
それもルールですが、それは先生が明示的に教えてくれるもので、どちらかというと型です。暗黙のルールではありません。
では感想文の暗黙のルールとは何か、具体例を基に示していきましょう。
「スイミーの感想文を書きましょう」
スイミーという話を覚えていますか?どの教科書会社の教科書にも必ず掲載されているお話です。あの作品の感想文を書く場面をイメージしてみましょう。
本来であれば感想文なのだからどんな感想でもいいはずです。しかし本当に自由に感想を書いて提出すると、おそらく「もう少し考えてみて」と突き返されるでしょう。
先生が求めているのは、児童生徒の自由な感想ではないのです。もちろんそれが書いてあってもいいのですが、最終的には物語を読む前と後で私は変化した、と表明する事を求めています。
どういう事かというと、スイミーであれば「協力する大切さを知った」とか「最後まで諦めない事の大切さを知った」とか、私はこの物語のおかげで良い方向に変化しましたよ、という報告を書いて欲しいのです。
また「私は、いつもスイミーのような仲間との協力はすでに実践しているので、何も心に残らなかった」と書いたら突き返されるか、低評価を受けるかするでしょう。
心に残りましたよ、学ぶ事がありましたよという報告も先生が感想文に求めているもののひとつです。
国語に限らず道徳の感想文も同じです。学べた、心に残った、自分の心はこんな風に良くなった!と書くことを期待されています。
…思い出してきましたか?
感想文を書かされる時のにがい感覚。
社会科の感想文
感想文を書くのは国語だけではありません。社会科でも調べ物をしたり、歴史を学習したりした後に感想文を書くことがあります。
そこで求められるのは、調べてわかった事、学習によって知った事を書くのはもちろんですが、今の社会と照らし合わせて、現在社会の問題点を見つけ出す事も求められます。
「昔と比べて今は職業選択の自由があるので幸せです」では、先生は笑顔になりません。その上で見つけた課題を聞きたいのです。
ではなぜ課題を見つけさせたいのでしょうか。それは詰まるところ見つけた課題に対して、どのような態度をとるのかを意思表明させたいのです。
え?…それで解決できる?
もちろん、課題を見つける力、それを解決する力は重要なスキルです。
しかし、社会科で扱う題材は「社会にはフードロスがある」「賃金の格差がある」など個人では解決不可能な大きなテーマである事がほとんどです。むしろそのような大きなテーマを扱う方が先生は喜びます。
さて今の社会に課題がある事を知ったとして、学生の身で何ができるでしょうか。
真面目な子は、さてこの社会問題はどうすれば解決できるのか…などと、悩むかもしれません。
しかし子どもは9年間の義務教育を受けるうちにどこかで気づきます。感想文を書く時にそんなに真剣に悩む必要などないんだという事実に。
そう、先生が求めているのは社会課題の具体的な解決方法ではなく、より良い社会、より良い状態を目指すよ、という意気込みの表明です。
だから「ゴミの無い社会にしていきたい」でもOK、「みんなに声をかけていきたい」でもOK。みんなに声を書けていきたいと感想を書いたとしても実際にみんなに声がけするかどうかは、先生は全く興味がありません。
フードロスに関して感想文を書くなら「まずは、自分のご飯を残さないようにしたいと思う」という感想でもOK。
おそらく先生から「立派な感想文ですね」と高評価をもらえます。
しかし、フードロスの多くは飲食店の廃棄によるもので、自分のご飯を残す残さない程度の行動は社会全体のフードロスに全く影響はありません。
しかし、感想文に書いたミクロな手法がどのようにしてマクロな社会課題の解決につながるのかという説明を求められる事は絶対になく、それらの因果関係についても先生は全く興味がありません。
もし「先生、クラスみんなで今週末に、飲食店を回って廃棄を減らすように呼びかけませんか?」とか「この問題の解決には議員を動かすしかありません。みんなで意見書を書いて市役所に行きましょう」など提案しようものなら、先生は「そんな事したくない」と言わんばかりの困った笑顔を浮かべる事でしょう。
繰り返しになりますが、先生が求めているのは、社会を良くしたいという意思表明であり、そのための具体的な行動や解決策の提案ではありません。
…ああ、確かにオレも先生の意図を組んでそんな感じで書いてたわ、感想文。
という人、いませんか?
感想文の暗黙のルール
さて、ここまでの話をまとめると感想文を書くときの暗黙のルールは以下のようになります。
心に残った事を書く。
読む前(学習する前)と後で、自分の中で変化した事を書く
自分自身の今後の生き方や、今後の社会をより良くしたいという意思表明をする。
暗黙のルールと言いながら、上の文章をそのまま感想文の書き方のコツとして子ども達に教える先生もいます。
しかし、これらの言葉の裏には次のようなルールが隠れています。
心に残った事がなくても、どこかが心に残った事にして(心偽って)書くこと。
その作品がつまらないと思っても、この作品のおかげで自分が良い方向に変わった、という事にして、それを書くこと。
社会の一員としてふさわしいと感じるような心構えを表明する事。意欲を書けばよく、具体的な行動は不要。
早ければ小学校の高学年、遅くとも中学生あたりになるまでには、子ども達はこの感想文の暗黙のルールに気づきます。
しかし多くの子どもは「先生の思惑通りに書けばやり直しさせられないし、成績も悪くならないし、感想文とはそんなもんだ」とどこかで納得して、感想文への違和感はいずれ忘れてしまいます。
感想文のメリット
感想文を散々ディスりましたが、もちろん感想文にもメリットはあります。
これまでみてきたような感想文の型をつくり、その型通りに書かせる事で多くの子どもが作文を完成できるようになります。小学1年生に何でもいいから思った事を書いて、では作文できない子どもも出てきてしまいます。
特に低学年など、文章を作る技術が未熟な発達段階では、感想文の型がある事で悩まずに作文ができます。
また、評価する教師側にも型通りかどうかを基準に感想文を見れば評価しやすいというメリットがあります。
もう一つ大きな視点で見ると、感想文に社会の一員としての心構えを自分の手で書かせる事で、無意識のうちに社会的な姿勢をその本人に刷り込むという、社会の安定のための、国家としての目的も見え隠れします。
どこかで「ごめんない」をして欲しい
このように感想文にも効果がある場面がある事は認めるとして、義務教育のどこかで種明かしをするべきだと思います。
一番良いのは小論文などを教えるタイミングです。
「今まで沢山感想文を書いただろうが、感想文には実はこのような暗黙のルールがあった。しかし、小論文は違うのだ。
感想文を書く時に、心にもない事を書かざるをえない状況になったり、課題の解決にならない宣言をさせられたりして心傷ついた人はごめんなさい。あれはあれで教育的な目的があったのだ」と説明してあげないといけない。
そういった説明が無いまま、唐突に感想文の学習は終わるので、感想文の型がその先も通じる文章のフォーマットと勘違いしてしまう人もいる。
そういった人は、大学の論文、会社の文章でも感想文の型で文章を書いてしまう羽目になります。
「感想文」は日本固有
実際、感想文を書かせるという作文指導法は外国ではあまり例がないそうです。
作文と言えば感想文と言うくらいに書かせられ続けた我々としてはにわかに信じがたいですが、実際そのようです。
そのため外国から来た留学生に感想文を書いてと言うと、何を書いていいのか戸惑うと言います。
では、海外では何を書いているかというと言うと、アメリカでは5パラグラフ・エッセイの文章だったり、フランスではディセルタシオンの文章だったりします。
これらも作文の型では、感想文のように変化の表明も必要なければ、課題に向かう意思表明も必要もありません。
これらが具体的にどのような作文の型なのか、知りたい人は調べてみてください。
かくして感想文はつまらない
だいぶ横道にそれましたが、一言で言うなら、感想文は自分の本心に関係なく先生が期待するものを書かされるからつまらない、と言えます。
まあ、知ってた、と言う声が聞こえてきそうな結論ですが、今回は先生が期待するものを中心にして文章にまとめてみました。