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読書記録③:『地下室の手記』


読むまでの間

この本は結構気楽な思いで買ったことを記憶している。一昨年の夏にまでさかのぼるが、眼鏡の新調ついでに寄った、ちょっとした書店に置いてあったのが出会いだった。『地下室の手記』なんていういかにもじめじめして陰鬱そうなタイトルを見て、「お、いいな」と思ったまま買い物かごにぶちこんだ。

しかしまあ、そこから実際に本を開くまでの間に随分と時間が経ったもので…これは本当に自分の汚点だが、一冊買って、読み終えて、また一冊買う──そんな流れには到底耐えられない。例えば本を3冊買ったとして、1,2冊を読んで、また3冊を買って…こういった具合に僕は、消化速度や理解力に釣り合わない衝動性と知的好奇心によって無限に負債を増やしてしまうという悪癖を持っている。そもそも本を買う頻度自体がそこまで高くはないから、散財をしまくっているというほどお金を使ってもないと思うけれど、しかしまあ、消費と消化のバランスを取るという人類の基本技能がどうやら僕には欠落しているようだ。

第一部「地下室」

さて、内容に触れたい。『地下室の手記』は二部構成になっている。第一部は小説チックに登場人物がたくさん出てきたり美しい会話があったりするわけではなく、まるで小論文とか、そういったものを読まされているような感覚にも陥る。他の小説家、史家、思想家、そういった人々を批判的に、肯定的に引用しながら「理性主義や合理主義の行き過ぎ」みたいなところを批判していく。

二二が四がすばらしいものだということには、ぼくにも異論がない。しかし、讃めるついでにいっておけば、二二が五だって、ときには、なかなか愛するべきものではないだろうか。

江川卓 訳『地下室の手記』63p

ここだけ切り取るとちょっと美しく繊細な雰囲気もあるが、「苦痛は快楽」とか「意識は病気」とか結構思い切ったことも言っている。さらにこの思い切った主張に説得力をもたせるべく、主人公は(誰に読まれるわけでもないのに)合理主義の賛同者たる「諸君」を想定してこれを一個の議論として成り立たせている。

しかし主人公はこの「諸君」の空想について自問自答を始める。これに何の意味があるのか、そもそも手記なんて書いていて何の意味があるのか。諸要因が語られるのだが、特に最近は遠い記憶に苦しめられており、気を紛らわせるためにも書いているのだと主人公は語る。そしてその遠い記憶を書くことで苦しみから逃れられるのではないかと考え、小説としては第二部に移る。

第二部「ぼた雪にちなんで」

第二部では青年時代の主人公が描かれ、前半では幼馴染と、後半ではとある娼婦との間に起きた失敗が描かれる。

主人公は寂しさのために旧友シーモノフのところへ向かうが、そこでは別の友人らが集まって学生時代にグループの中心人物であったズヴェルコフの歓送会をしようという相談をしていた。主人公は彼ら全員、ズヴェルコフをも軽蔑していたのだがそこに参加を希望し、渋々の承諾を受ける。

会が始まって、彼がそこに馴染めるはずもなかった。彼が全員を軽蔑していたように、全員が彼を軽蔑していた。ズヴェルコフらの視点から見れば彼は会をぶち壊しにしてくれたわけで、空気としては到底美味しくない。そういうわけで、一行は主人公を置いてとっとと場所を移しちまおう、と売春宿に出かけていった。

彼は病的な癇癪を起しながら売春宿へ向かうが、もう彼らは部屋にすっこんでしまっていて、彼が思い描く復讐譚はご破算となった。彼は部屋に通され、そこで出会った娼婦リーザと会話を始める。

ここで主人公はリーザに対し、「良き女の生とは何か」といった具合の長い演説をぶつ。実に4ページほど主人公の演説が続く。そして彼の書物臭い物言いがリーザに指摘されると、ここでまた「君の人生はこのままでは悲惨なことになるぞ」とでも言わんばかりの長~い演説をぶつ。今度は8ページと6割くらい。読んでいてこいつは頭がおかしくなってしまうなと思った。

この演説はリーザに大きな影響を与え、彼は彼女がさめざめと泣いている最中、自分の住所を渡し帰宅する。彼はこの時、完全に彼女の英雄だった。しかし彼は直後には自分がアドレスを渡したことをひどく後悔し、彼女が訪ねてくることに恐怖心を抱きながら3日の時を過ごす。

時は最悪のタイミングで訪れた。リーザは主人公がボロボロの部屋着を着て、召使いアポロンと激しく口論をしているそのさなかに訪れてしまったのだ。彼の中で蠢くアポロンに対する憎しみや住所を渡した後悔、リーザに醜態を晒した恥などは激しい癇癪とヒステリックに化け、リーザを襲った。彼はまた4ページほどの演説を、こんどは泣きながら行って、お前を救うどころか、不幸で貧しいのはむしろ俺であるのだと言った。

彼女はそこからしばらくいたが、一言、「帰るわ」とだけ言って主人公の家を出た。主人公は引き留めようと試み、しまいには家を飛び出すが、リーザどころか物音ひとつない、雪の降りしきる道がただあるだけだった。

雑感

だいぶ端折ったが、概ねこんなところだろう。本書はドストエフスキーの作品において「全作品を解く鍵」と呼ばれているらしい。彼の代表的な作品、すなわち『罪と罰』であるとか『カラマーゾフの兄弟』、『白痴』であるとかといった大作群に現れるテーマの嚆矢とする見方が強いらしい。ここのところは正直あまりよくわかっていない。文学作品を読むことがあまり多くないもので、『罪と罰』も親から譲り受けたものを持ってはいるが読めていない。

ただ、『罪と罰』のテーマとしてよく聞く行き過ぎた理性主義批判、という点は第一部にしろ第二部にしろ色濃いと感じる。しかしどうやら、ドストエフスキーはこの小説が書かれる前には主人公が批判する殿方に近いような、人道主義的な文学を書いていたようだ。ではこの転向はなぜ起きたのか?

専門家ではないから詳しいところは分からないが、どうやら彼は1849年に死刑から懲役刑への減刑を処刑場で銃を持った部隊の前に並べられているその時に告げられたという事件があったらしい。さらに当時のロシアの革命派は内部分裂の嵐だったようだから、ドストエフスキーはそういった進歩的運動に対して恐怖と失望を味わったのだろう。

陳腐でファスト教養と批判されそうな物言いをしてしまうが、技術というものが進歩し道徳や人間感情が重視されなくなっている時分、これくらいドラスティックな物言いを摂取しながら生きていた方がバランスがとれるといった雰囲気も感じる。無論すぐそうなることはないが、世界は一歩一歩、小さい歩みだが確実に主人公が作中で言っていたような社会へ向かっているとは思う。その中で人間感情はいかにして守られるのか、人間は如何にして人間であることを保つか。

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