【古陶磁の逸話①:豊臣秀吉と備前焼】戦国時代の景色を当時の逸話で振り返る!安土・桃山時代から江戸時代の古美術品の逸話を古陶磁鑑定美術館が解説!
こんにちは、古備前研究・鑑定の古陶磁鑑定美術館です。
古陶磁鑑定美術館では、古備前焼を中心とした日本の古陶磁器の研究・調査・鑑定・評価・蒐集・保存・継承の事業を行っています。
みなさんは、『古美術品』という言葉を聞いた時に、どんなことをイメージしますか?
ビルの一室で、古い壺や掛け軸や茶道具などを、札束で取引しているような風景を想像される方もいるでしょうし、美術館や博物館に陳列されている優雅な屏風や襖などをイメージされる方もいるでしょう。
それらの古美術品に共通することが、作品の『時代背景』です。
もちろん、作品によって、作られた時代や産地や用途が異なりますので、それぞれの時代背景は別々なものですが、どんなものであっても、『作られた当時』の景色を面影として残しているという点では、古美術品は同じと言えます。
そして、この「時代背景を愉しむ」ことこそ、古美術品の醍醐味であり、数寄の真髄なのです。
なぜなら、古美術品を通して「悠久の時間を超えて歴史の当時に思いを馳せられる」ことこそが、数寄者の最大の面白みであり、悦びだからです。
とは言え、それを言葉で説明してもイメージが湧きにくいかと思います。そのため、このコラムシリーズにて、古美術品が「現役」で使われていた時代の風景を紹介して参ります。
具体的には、主に「戦国時代(安土・桃山時代~江戸時代)」にかけての、茶の湯や茶会の記録や、大名や武将の逸話をベースに、当時の古陶磁や古備前焼についてのエピソードを解説します。
古美術品や骨董品に興味がある方は、ぜひこのコラムで、歴史の面影を感じてみましょう。
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今回ピックアップする逸話は、「豊臣秀吉と備前焼」です。
実は、豊臣秀吉は、戦国大名の中でもトップクラスと言っても良いほど、備前焼との逸話に事欠かない人物です。
むしろ、当時の備前焼を流行させたのは秀吉なのではないかと思える程、多くのエピソードが残されています。
そもそも、秀吉と備前焼の産地「岡山県伊部地区」との関係は古く、かの備中高松城の水攻めを行っていた頃から、支配下として影響を及ぼせた地域です。
史実では、羽柴秀吉が、織田信長から中国(毛利)攻めを命令されたのが1577年のことです。当時の備前地区を支配していた宇喜多氏が服属するのが1579年、そして本能寺の変と中国大返しが1582年ですから、おおよそその頃から、秀吉は実質的に備前地区を配下におけたと考えられます。
当時の備前焼は、「壺・甕・すり鉢」が全国的に普及しており、西日本では圧倒的なシェアを誇っていた焼き物です。
また、千利休を中心とした「侘び茶」の流行によって、備前焼の建水や水指が茶会で多用されていました。
千利休の茶の湯の弟子でもあった秀吉が、そんな「大きな利権」を放っておく筈はないのではないでしょうか。
百聞は一見に如かずです。そんな秀吉と備前焼との著名な逸話やエピソードを、実際に見ていきましょう。
※ 時代背景を伺うエピソードとして、伝承レベルの逸話も含めて紹介しています。一部歴史の史実と異なる内容が含まれることがありますので、予めご了承ください。
・逸話①:「城を落とすと備前焼の大甕を壊させた」
当時の備前焼の大甕は、大きい物では360リットル(2石)や540リットル(3石)もの容量がある巨大なものが伝来しています。また実際に、当時の城跡や寺社遺跡からは、大量の備前焼の大甕が出土しています。
これらに水を蓄えておくことで、水攻めや兵糧攻めをされても、城や関所で長期間籠城して抵抗することができたのです。
なぜなら、備前焼に入れた水は腐りにくいからです。それを恐れた秀吉は、敵の城を落とすと、備えられていた備前焼の大甕を片っ端から割って破壊させたと言われています。
・逸話②:「明智光秀を倒した後の山崎の茶会で備前焼の建水を披露」
1582年の11月7日に秀吉が山崎で茶会を開きました。客には、千利休(宗易)、津田宗及、今井宗久、山上宗二らが招かれています。
その茶会で秀吉は、備前焼の建水を用いました。1582年と言えば、本能寺の変が起こり、明智光秀を倒した年です。
その当時から、秀吉は、茶会で備前焼を愛用していたのです。
・逸話③:「北野大茶湯でも備前焼を披露」
1587年11月、京都北野天満宮境内にて、秀吉は大規模な茶会を開催しました。その名も「北野大茶湯」。この茶会を管轄したのが、当時の茶頭筆頭の千利休です。
この茶会で秀吉は、備前焼の筒花入を用いています。また、秀吉が所有する名物茶道具を披露した中には、備前焼の建水(武野紹鷗所持との伝来付)も含まれていました。
ちなみに、この茶会では、備前焼以外の国産の焼き物は使われていませんので、当時どれだけ備前焼が特別な存在だったかが伺えることでしょう。
それほど秀吉は、備前焼の茶道具に愛着を持っていたことが分かっています。
・逸話④:「征伐中も備前焼に夢中。窯を管理し、博多では名品を自ら発掘。」
秀吉は、備前焼の流通や管理にも指図を出しています。
それまで3つの大窯で焼かれていた備前焼の窯を1つに統合させて、過度な生産や流出を防いだり、備前焼の窯元や陶工に、窯焚きをするための燃料である松を、無料で採取することを認める文章を残していたりしました。
また、九州征伐の際に立ち寄った博多では、景色の良い備前焼の水指を発掘して、「博多」と銘々するなど、備前焼の目利きっぷりも披露しています。
これらの行為からは、秀吉が、備前焼の保護と管理に興味関心を示していたことが伺えます。
すなわち、秀吉は、備前焼をただの茶道具としてではなく、「戦略的産業」として、支配しようとしていたのではないでしょうか。
・逸話⑤:「備前焼の中で眠る?棺桶は備前焼の大甕だった!」
なんと、豊臣秀吉は、自分の葬棺に備前焼の大甕を使っています。
死後も備前焼の中で過ごしたいという、秀吉の愛情表現かどうかは分かりませんが、備前焼は当時から「水が腐らない」「酒の味が変わらない」など、保存耐久性に優れていたことが知られていましたから、その効果にあやかって、防腐的な効能を期待したのかもしれません。
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どちらにしても、秀吉と備前焼は、出世時から死ぬときまで常に一緒であったと言っても過言ではない程、密接した関係性があったと考えられるのです。
このような「時代背景」を知っていると、当時の大名や武将を身近に感じたり、歴史の遺物(伝来品)に愛着を感じたりできるようになります。
そんな、安土・桃山時代の備前焼を通じて、秀吉が生きた戦国時代に思いを馳せて見ませんか?
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戦国時代の茶人や大名は、一体どんな備前焼茶道具を使って、茶の湯を行っていたのか?
その答えを、実際の「伝来品」を通じてみることができます。
ぜひ、ホームページをご覧ください。また、書籍「古備前焼の年代鑑定」を宜しくお願い致します。