【古陶磁の逸話⑧:戦国武将と備前焼】戦国武将が、茶会で使った備前焼を徹底検証!佐久間信盛・黒田勘兵衛(如水)・黒田長政・筒井順慶・母里太兵衛・織田有楽斎・伊達綱村
こんにちは、古備前研究・鑑定の古陶磁鑑定美術館です。
古陶磁鑑定美術館では、古備前焼を中心とした日本の古陶磁器の研究・調査・鑑定・評価・蒐集・保存・継承の事業を行っています。
みなさんは、『古美術品』という言葉を聞いた時に、どんなことをイメージしますか?
古い壺や掛け軸や茶道具などを大金で取引しているような風景を想像される方もいるでしょうし、美術館や博物館に陳列されている優雅な屏風や襖などをイメージされる方もいるでしょう。
それらの古美術品に共通することが、作品の『時代背景』です。
もちろん、作品によって、作られた時代や産地や用途が異なりますので、それぞれの時代背景は別々なものですが、どんなものであっても、『作られた当時』の景色を面影として残しているという点では、古美術品は同じと言えます。
そして、この「時代背景を愉しむ」ことこそ、古美術品の醍醐味であり、数寄の真髄なのです。
なぜなら、古美術品を通して「悠久の時間を超えて歴史の当時に思いを馳せられる」ことこそが、数寄者の最大の面白みであり、悦びだからです。
とは言え、それを言葉で説明してもイメージが湧きにくいかと思います。そのため、このコラムシリーズにて、古美術品が「現役」で使われていた時代の風景を紹介して参ります。
具体的には、主に「戦国時代(安土・桃山時代~江戸時代)」にかけての、茶の湯や茶会の記録や、大名や武将の逸話をベースに、当時の古陶磁や古備前焼についてのエピソードを解説します。
古美術品や骨董品に興味がある方は、ぜひこのコラムで、歴史の面影を感じてみましょう。
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今回ピックアップする逸話は、「戦国武将と備前焼」です。
【コラム①:「豊臣秀吉と備前焼」を読んでいない方はこちら】
【コラム②:「千利休と備前焼」を読んでいない方はこちら】
【コラム③:「明智光秀と備前焼」を読んでいない方はこちら】
【コラム④:「古田織部と備前焼」を読んでいない方はこちら】
【コラム⑤:「小堀遠州と備前焼」を読んでいない方はこちら】
【コラム⑥:「荒木村重と備前焼」を読んでいない方はこちら】
【コラム⑦:「金森宗和と備前焼」を読んでいない方はこちら】
これまでのコラムでは、特定の武将や茶人にフォーカスしてきましたが、今回は、備前焼を使用した戦国武将や茶人を一覧で紹介します。
備前焼の茶道具を愛した戦国時代の武将や大名、茶人は、一体誰だったのでしょうか?
当時の茶会記から探ってみたいと思います。
【佐久間 信盛】※織田信長の重臣
1578年10月 備前水下
1579年 1月 京都 備前水下
1579年 8月 住吉 備前水下
1580年 2月 備前亀ノフタ
1580年 3月 備前水下
【筒井順慶】※大和国郡山城主の戦国大名
1579年 6月 郡山 備前ハウノサキ(※棒の先)
1583年 1月 奈良 備前ハウノサキ
【黒田官兵衛(如水)】※豊臣秀吉の右腕、戦国の三英傑。
1602年12月 鳥飼 床ニ備前筒ニ柳入テ壁縣
【黒田長政】※黒田官兵衛の長男、筑前福岡藩主
1604年 2月 福岡 柱懸ハ備前物也
【母里太兵衛】※黒田官兵衛の重臣。福島正則から名槍日本号を譲り受けた
1603年 1月 博多 水下備前
【織田有楽斎】※織田信長の弟
1605年 6月 大阪 水指ハヘウタンナリ、真蓋、備前物也
1615年10月 京都 津田宗及(伝来の)ククリ袴ノ水指
【伊達綱村】※仙台藩4代藩主
1698年 1月 江戸 水翻 備前筒型
1699年 6月 江戸 水翻 新備前四角
1693年11月 江戸 水指 古備前五角
1698年 2月 江戸 水指 古備前五角
1698年 9月 仙台 水指 古備前五角
1699年 4月 江戸 水指 古備前五角(計11回)
1699年 5月 江戸 水指 古備前餌畚利休所持(今井七九郎殿参候計2回)
1699年 6月 江戸 床 花入 備前立鼓
このように備前焼は、多くの戦国武将や大名たちに愛用されていたことが分かります。
豊臣秀吉の右腕と称された黒田官兵衛(如水)と長政親子は、もともとは岡山の長船(福岡)にゆかりのある武将です。
関ヶ原合戦後に、筑前博多に領地を与えられた際に、もともと「福崎」という名前だった場所を、備前国福岡にちなんで、「福岡」という地名に改名しました。これが、現在の福岡市の由来になっています。
その地で、如水・長政親子は、「筑前高取焼」という焼き物を作りますが、この焼け肌が備前焼に近いのは、そういった背景が影響していることは間違いないでしょう。
また織田信長の弟で、武家茶道「有楽流」の創始者でもある織田有楽斎(長益)も、慶長~元和年間にかけて備前焼の水指を茶会で使っています。織田有楽斎は、古田織部や小堀遠州と並んで、江戸初期(慶長~寛永期)の茶道文化を盛り上げた立役者の一人です。
1615年の茶会では、かの津田宗及(天王寺屋)所持の「括り袴水指」を披露しました。元和年間に入って、再び利休時代の茶道具に注目が集まったのでしょうか。
また、元禄期になると、仙台藩主伊達綱村が備前焼の茶道具を愛用しています。綱村は、古備前焼と新備前焼を併用しました。
この時代は、利休時代から遠州時代の茶道具を「古備前」と呼んでいることから、すでに元禄期には寛永時代の作風が変化していたことが分かります。
備前焼は、茶の湯の流行と共に変化しながら併走していたのですね。
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このような「時代背景」を知っていると、当時の大名や武将を身近に感じたり、歴史の遺物(伝来品)に愛着を感じたりできるようになります。
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戦国時代の茶人や大名は、一体どんな備前焼茶道具を使って、茶の湯を行っていたのか?
その答えを、実際の「伝来品」を通じてみることができます。
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