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VTuberに対して「バーチャル」「リアル」という表現をやめたという話

私はVTuberのファン/ライターの中でも、「バーチャル」だとか「リアル」だとかいう表現に敏感だと思う。
VTuberがより実写に体を晒せばファンの中には発狂する人間もいる。
だが、おめがシスターズなど様々なVTuberが体のあり方をより実写主義※になっている。

※実写主義→写実主義とは異なって、実写に動画やライブ配信を実施することをよしとするVTuberを指す便宜上の言葉で特段定義づけはしない

そういった視点は「VTuberアバター存在論」(今読むと大幅に書き直したい……。)やKAI-YOUさん、PANORAさんで書いてきた記事の中にも色濃く視点として残っていると思う。

今の私のポジションは、ある程度幅広くVTuberの情報を持ち、解析し、それを広めるべくいなくてはならない状況にある。
それは「Project Virtual History」というVTuber情報コミュニティの運営やライター業、VTuber/VTuber関係者に対するコンサルティングに必要だからだ。

そうした広く情報を持ち続ける為に私は日夜、VTuber関連分野の書籍を取り寄せて大量に読んでいる。
中でも『現代思想』2022年9月号が「バーチャル」「リアル」と呼んできたVTuberの身体性のあり方についての考え方を変えるきっかけになったので紹介しよう。

なお、本文は趣味で書いてるnoteだ。キャリア積んでる人間なら、批評をするならTwitterではなく、noteでまとまった文章でお願いします(一般人はツイート歓迎)。

『現代思想』2022年9月号とは?

『現代思想』は、青土社より刊行する思想、哲学誌だ。
毎号テーマを設定し、様々なことに対して専門家や批評家が意見や考え方、研究成果などが掲載される。
2022年9月号のテーマは「メタバース」。
メタバースに関する様々な論考が掲載されており、中にはバ美肉研究の権威でもあるMilaさんのバ美肉論文の日本語訳も掲載されている。
そのため、メタバースがメインではあるものの、若干VTuberの情報も載っているのだ。

きっかけは対談だった

そんな「現代思想」2022年9月号の冒頭に掲載されているのが、情報学の専門家のドミニク・チェンさん、人工知能やVRに造詣の深い能楽師・安田登さんがアバターの身体論についての対談。
そこでの安田さんの発言に私は感銘を受けた。

安田 (前略)ですから「バーチャルかリアルか」というのは、実はもう古い。フィジカル化、デジタル化の違いで、デジタルでもリアルなわけですね。
能というのはやっぱフィジカルだよね、という考え方もありますが、デジタルなリアルにもまた別の可能性があると思っています。

チェン そんなことを言う能楽師は安田さんだけだと思います(笑)。

「現代思想」2022年9月号 p9

さて、なぜこれに感銘を受けたかというと、そもそも「バーチャル」
を「仮想」だとかと訳すのは誤りだとか「バーチャル」という言葉がいかに面倒なものであることを知らないといけない。

バーチャルって言葉ってめんどくせぇ!

以前にnoteにも引用しているが、再度もっと長くした状態で日本バーチャルリアリティー学会 初代会長・舘暲さんの解説を掲載しよう。

バーチャルリアリティのバーチャルが仮想とか虚構あるいは擬似と訳されているようであるが,これらは明らかに誤りである.バーチャル (virtual) とは,The American Heritage Dictionary によれば,「Existing in essence or effect though not in actual fact or form」と定義されている.つまり,「みかけや形は原物そのものではないが,本質的あるいは効果としては現実であり原物であること」であり,これはそのままバーチャルリアリティの定義を与える.
バーチャルの反意語は,ノミナル(nominal)すなわち「名目上の」という言葉であって,バーチャルは決して リアル(real)と対をなす言葉ではない.虚は imaginaryに対応し虚数 (imaginary number) などの訳に適している.因みに,虚像はvirtual imageの誤訳である.触れないというのは,像の性質であって,バーチャルに起因するわけではない.virtual imageはreal imageのようにそこに光が集まったり,そこから光がでるわけではないが,それと同等の効果を有するというわけである.擬似は pseudo であって外見は似ていても本質は異なる偽者である.
仮想はあくまでもsupposedで仮に想定したという意味を表していて,これもバーチャルとは全く異なる概念である.一例を挙げるならば,仮想敵国は supposed enemy であって,バーチャルエニミー(virtual enemy)というのは,友好国のように振る舞っているが本当は敵であるという意味である.バーチャルマネー(virtual money)も電子貨幣やカードのように貨幣の形はしていないが,貨幣と同じ役割を果たすものをいうのであって,決して偽金ではない.バーチャルカンパニー(virtual company)が仮に想定した仮想会社であったならば,そのようなところとは.取り引きができない.従来の会社の体裁はなしていないが,会社と同じ機能を有するので,そこを利用できるのである.明治以来このかたこの言葉を虚や仮想と過って訳し続けてきたのは実はバーチャルという概念が我が国には全く存在しなかったためであろう.しかし,考えれば考えるほどこのバーチャルという言葉は大変奥の深い重要な概念である.バーチャルは virtue の形容詞で,virtue は,その物をその物として在らしめる本来的な力という意味からきている.
つまり,それぞれのものには,本質的な部分があってそれを備えているものがバーチャルなものである.

――「バーチャルリアリティーとは」(2012年1月13日)
日本バーチャルリアリティー学会 初代会長 舘 暲

文中に「バーチャル」と「リアル」は対する言葉ではないとあるように、VTuberが実存的になることを「リアル」と表現するのは誤りだった
そんな中で代用出来る言葉も思いつかず、私はこれまでしょうがなく、「バーチャルとリアル」という対にした表現を行うことでVTuberの実存的表現について解説をしていた。

これからはデジタル/フィジカル

さて、前段の『現代思想』の話に戻る。
「リアル」と表現するのは誤りな中で適用できるのが『現代思想』で出てきた「デジタル」か「フィジカル」かだ。

VTuberの身体は基本的に2DCG/3DCGで描画されているため、これまで「バーチャル」と呼んできたものは「デジタル」と適用できるし、体を実写に投影しても「バーチャル」を使い続けるこの業界の中で、言葉として曖昧なこの言葉を使い続けるのも限界が生じてきている。

これまで「バーチャルYouTuber」や「VTuber」といわれてきたのは、キズナアイさんが「とりあえずバーチャルってことで……」といったことがきっかけなので、これが実はデジタルでもあまり言語化のうえでは最悪違和感はない(オタクとしては、あんまり気のいいものじゃないですけどね)。

また、フィジカルという言葉になじみがないと思うが、実用日本語表現辞典から引用しよう。

フィジカル(physical)は、主に「肉体的」「身体的」あるいは「身体面」の意味で用いられる語。
(中略)
英語の physical は形容詞であり、「物質的な」「物理(学)的な」という意味を主とする語彙である。「肉体的」「身体的」という意味でも用いられる。英語の physical は、名詞 physics(物理学)あるいは physic(医薬)に接尾辞 -al がついた形の派生語である。

実用日本語表現辞典「フィジカル」

フィジカル・アバターという点では、サイバネティック・アバターという概念がある。これは遠隔操作で自分の体と同じように感覚を共有できる「身代わりロボット」のようなものが構想され(外部リンク)、分身ロボット「OriHime」などといったものが実際に現場に導入されている。
実際にアバターという用語はフィジカル面でも使用され、適用できている。

VTuberが実写になっているときにも、フィジカル(物理的/肉体的)という言葉は、適用できると考えたい。
別にリアル(現実的/写実的)でも問題はないが、どうしても連想としてバーチャル/フィクションと対なるものという考えが先行しがちな言葉であるため、便利に使えてしまう。
そこをより「物理」といった物質主義に至ることで、よりピンポイントに表現ができるのではないか? と考察している。
なので、今後はバーチャル/リアルという表現は極力使用せず、デジタル/フィジカルと使おうと考えている。

実践「黛灰の物語」のフィルターを通してみる

最後におまけではあるが、この物質主義においたVTuberの考え方を「黛灰の物語」に適応して考察するとどうなるか実践してみる。

かつて黛灰さんはバグを起こし、我々の世界に干渉をしたときに下記のようなことを話した(抜粋)。

おれは今見ている人たちと同じ人間なんだ。人間のはずだった、
おれは自分も自分が生きる世界も、本当にそれが形と魂を持ったものなんて何一つ疑問を思わず生きてきた。
ちゃんとおれも世界も生きていたはずだった。
でも自分はただの1キャラクターで、空想の産物に過ぎないことを知った。
どこかの誰かが描いた、がらんどうのガワでしかなかった。
(中略)
ねぇ、現実ってどんなの? 俺の住む世界とどう違うの?

同じだよ。

空気も、景色も、笑い声も、葛藤も、こんなに同じなのに。
全部筋書き通りだよ。
誰かに決められているなんて。
どうして、そっちがリアルで、こっちがバーチャルなの?

黛灰/©ANYCOLOR「2021年6月19日の様子
足が見るのは、観測者か、否か?/©ANYCOLOR

私は黛灰さんがこの疑問を投げ、最終的に投票結果を経て、回想をする。

そうか、同じなんだ。現実だから、バーチャルだから、そういう括りばかりで見ていたけども、そこに大きな違いなんてないのかも。
(中略)
バーチャルだからって、これを見ている人たちと自分自身が違うからってきにする必要はない。
施設の人だって、子供たちだって、俺にとっては家族だし、
おれの住む世界は、おれにとっては現実だ。
だからおれは、おれの現実で生きていく。
バーチャルだ、キャラクターだ、ガワだ、ロールプレイングだ、茶番劇だ……
いくら言われようとも、おれがこうやってして、
この世界に立つ限り、そこには俺の意思しか存在しない。
おれの魂はこんな壁の向こう側で、悪趣味な台本を用意して、
ほくそ笑んでいる人間のためにあるわけじゃない。
おれの魂は、《マイクに掠れる音》ちゃんとここにあったんだ

黛灰/©ANYCOLOR「

現実という言葉が、バーチャルやフィクションと対になっているという一般化してしまった、偏った思想と主義主張の違いがこの物語の要になってしまっている。
結論の「おれの魂は、ちゃんとここにあったんだ」は物理性と実在性の自己証明になる。
というのも、VTuberはデジタルだろうがフィジカルだろうが問題ないし、現実というものは自分が思ったものに過ぎない。
(脳は視覚から得られた電気信号を処理しているにすぎないわけだし、世の中は「マトリクス」のようかもしれない。)
変に結び付けられる「仮想/バーチャル」「現実/リアル」はやはりVTuberに適応しにくいというのが、この物語の引用を改めてすることで垣間見れた気がする(自己満)。

ここから先に、彼の物語はなく、あるのは彼の人生のみである。

黛灰「TRUE END3『灰は灰に』

(アイキャッチ=「」黛灰/©ANYCOLOR)


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