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トラピスチヌ修道院

純心とはなんだろうか。真心ってなんだろうか。

サラリーマンも五十代となると微妙な年齢だ。
あと少しで定年と思う人がいるかもしれない。
でもこれからそこまで辿り着けるか、
どうかはわからない。
会社に居場所がなくなりつつあるのがわかる年齢だからだ。

いくら自問自答しても答えが見つからないから
そんなこと考えないようにしていたあの時、
函館を旅した。

ハリストス教会  函館  元町地区


仕事が忙しくて旅行らしい旅行は
ゴールデンウィーク、お盆休み、年末年始。
週末は週間の仕事で疲れた体を休める時間だった。
今週の仕事は来週の仕事を埋めて行くこと。

こんなことになったのは三十代半ばの初めての人事異動で発足以来ずっと大赤字の続く部署に転勤になったからだ。
自ら忙しくしようとしてきた。
自分のためでありこの部署で働く三十何人かのため。

赤字で業績が悪いから取り潰しだ、

となっては困るのだ。
毎日毎日追い立てられるように仕事をして疲れ果てることがあった。
疲れているとお風呂に入っても体を洗うことができない。

10年続けてきてようやく誰の目にも業績の好転の兆しが見え始めてきた矢先がっかりすることが起きた。
人事異動で閑職に追いやられたのだ。

その前から意地の悪いことをされたりして
退職しようかと考えたこともあった。


でも閑職になったことを利用して金月に有給を取り
年間二十日の有給をすべて消化し三連休にして
旅行することにした。
その時に訪れたのが函館だ

区公会堂 元町地区


函館は綺麗な街で
元町、五稜郭、大沼公園と函館山の夜景と巡った。

大沼公園


函館山から夜景を見るために日没の一時間前に
ロープウェイに乗り、場所を決めじっと佇む。

日没が近づき函館の街に灯が灯る。
夕闇で函館の街の灯は輝きを増す。
夕闇から深い漆黒の闇が深まれば深まるほど
函館の街は煌めく、まるで宝石のように。

函館山の夜景



函館の旅の最後に空港に近い
トラピスチヌ修道院を見た。事前に調べた訳でも無く
ホテルで乗ったタクシーに連れて来られた。

修道女たちの日常が写真で紹介されていた。
写真の一つには修道女たちの沢山の墓標があり
修道女たちがこの場所で終焉を迎え葬られてゆく、
ここが彼女たちの終焉の地だ。

ここには四体の聖女像がある。
その像を見たとき
自分が心の奥底に仕舞い込んでいるもの、
があると気付かされた。


もうずっと昔に忘れてしまっていたもの、
を思い起こさせてくれた。
どうして仕舞いこんでしまったのか分からない。
いつの間にか上手に生きていくために
仕舞いこんだのだろうか。

嫌なものが心の中に潜んでいる、とは
この像を見るまで想いもよらないことだった。
これから年齢を重ね年老いて行く日々、
を送る自分にとって、
心の中に抱え込んでいる嫌なものを取り除かないと後悔することになる
気持ちが落ち着かなくなってきた。

聖女像は

純心さや真心を

形にしたような無垢の表情に見えたからだ。

聖女像とじっと対話するように向き合っていた。
少しずつ自分の心の奥底にある悪意のある嫌なもの、
が表に滲み出るような気がした。
長い時間心の奥底にしまいこんで
澱のように凝り固まっていたのだろう、
簡単に氷解するようにはいかない。

しかし、少しずつだが
純心さや真心が溶け出すような気がした。
長い間しまいこんでいたためか
心を溶解させるのに
今日1日では時間が短く無理だと思った。


あの函館旅行から随分時間が経過した。

トラピスチヌ修道院には自分の心を溶かすために
何回か訪れて無言の対話をしていた。
それから定年して再雇用を2年間働き
今も続く実母の介護のため退職し
年金生活になって数年経つ。

今見てどう感じるか知るため函館に飛び立った。
久しぶりに見た聖女像は穏やかだった。

会社勤めをしてないせいか
配慮するところがなくなったためか、
なんども聖女像と向き合って心が氷解したためか、
穏やかな気持ちで見ることができた。


ただ聖女像の前に置かれていた長椅子は撤去されていた。長椅子に腰掛け、語り掛けるように長い時間を過ごすことは出来なくなっていた。



33号室

柊屋旅館から投稿

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