まぁまぁの人

ビルゲイツと生年月日が同じです。星占いは熱心にならない方が良いと思う。学校を出て対人が…

まぁまぁの人

ビルゲイツと生年月日が同じです。星占いは熱心にならない方が良いと思う。学校を出て対人が苦手なのに営業の仕事を与えられよく働いた。島根以外の46都道府県で打ち合わせをしました。岡田斗司夫からライフステージという括りを知り貧乏人生まれの自分の生き様はどうだったのか振り返りたい。

最近の記事

お花巡り ツツジ

まるで万華鏡のような世界だ。 これほど見事なツツジを見たことがない。 ここを知ってからはすべての予定を ここを見るためにした。 私有地というから驚きだ。 ここは長崎、大村にあるツツジ園 例年は4月20日前後見頃を迎える。

    • 蓮華王院三十三間堂

      少し良いカードに加入していると冊子を送ってくる。 冊子が送られてきても読んだり読まなかったり あまり関心がない。 ただあるカード会社の冊子は 伊集院静氏のエッセイがあり 読むのを楽しみにしていた。 あのエッセイが今後読めないと思うと残念でならない。 その冊子が蓮華王院三十三間堂の 貸切見学会を行うという。 すぐ申し込んだ。 一般の見学が終わった後の時間から開催なので 京都に宿泊することにした。 京都の宿泊は柊屋旅館の33号室に宿泊していた。 33号室は高校の時よく読んだ三

      • 味巡り 天龍

        ずっと営業を続けていて40代半ばに仕事で訪問した都道府県を指折り数えていた。未訪問の都道府県は片手になっていたからだ。どうせなら都道府県制覇をコンプリートしたいと未訪問の都道府県に狙いをつけていた。 そしてついに仕事で沖縄を訪問した。もう沖縄に行くというと遊びに行くと同意語だ。出張を申請して承認を貰う必要がある。如何にこの訪問が事業に取り有意義なものか説明しなければならない。 打ち合わせも大事だが沖縄で何を食べるかも大事だった。沖縄というとソーキそばやゴーヤチャンプルとい

        • 気持ちにフタをする

          44分ほどの報告だった。 マイケル・ジョーダンが活躍していた1990年代にNHKbsはNBAのシカゴブルズ戦をメインにチャールズ・バークレーのいたサンズ戦やカール・マローン、ジョン・ストックトンのユタジャズ戦を放送していた。 家ではたまに、出張で泊まるホテルのテレビでNBAを見ていた。マイケル・ジョーダンのプレーは周囲のプレーヤーが俊敏に動き廻る中でまるでスローモーションを見ているかのようだった。 慌ただしく俊敏な動きでマイケル・ジョーダンのシュートを阻止しようとするが

        お花巡り ツツジ

          知の総量

          私は本の無い家で生まれ育った。 私が初めて触れた本は小学校の図書室。 図書室で初めて借りた本を覚えている。 フランダースの犬、だ。 本を読んで悲しい気持ちになるのを知った。 借りては読み、借りては読みを繰り返した。 通学路の途中に本屋があり覗いて見たりした。 本屋の入り口付近には幼児向けの絵本があり 会計付近には週刊漫画誌や大人向けの週刊誌、 少し奥へ行くと月間専門誌、 更に進むと分厚い単行本新刊書、 もう少し進むと文庫本、 一番奥には難読な専門誌があった。 どこの

          レールの物語

          退職して随分時間が経つのに良く電車に乗る、とても便利だ。人を選ばず誰でも等しく利用出来る。新橋〜横浜間で最初に敷設されたのは知っている。 明治に新橋〜横浜間の鉄道を敷設してから瞬く間に全国に鉄道が開通する。鉄道を造る技術が無かった日本は明治の貨幣で外国から買った。 貨幣とは人類が初めて手掛けた工業量産品だ。 日銀の貨幣博物館が東京駅から少し歩いたところにある。貨幣の歴史を知ると日本史の知られざる側面を知る。 鋳造された貨幣の見栄えで日本の歴史を見ると意味ある貨幣を鋳造

          つまづく

          50代の前半で閑職に追いやられてから仕事時間をどう過ごそうか考えていた。時々仕事はするし地方へアポを取り出張をしたり営業として出かけるがそれだけでは埋めきれない時間があった。市場調査に出かけてもいた。 しかし、自分にとって有意義な時間を過ごしたかった。 残されている時間は周りにいる人たちより短いし、さてどうしょう。 空いている時間は美術館を回ることにした。幸い東京にはたくさん美術館がある。 アーティゾン美術館になる前のブリヂストン美術館のお別れ展、東京国立博物館の円空展、

          とんぼ

          新入社員としてメーカーの営業に採用され大阪に配属された。出身は神奈川で両親は相馬の生まれ、大阪は縁のない土地だった。 営業は既存の顧客対応と新規顧客開拓が求められていた。先輩達は新規顧客開拓を実現させ顧客にしていた。 同じ役割を期待されていた。しかし、どうしたらいいのか分からない。先輩達は新規顧客に電話してアポ取りして訪問していた。一緒に新規顧客に行ってどういう話をして開拓に結びつけるのかジョブトレーニングが行われた。入社一年目はジョブトレーニングで終わった。 二年目か

          清水寺と中尊寺

          せいすいじ 読みではなく きよみずでら。 日本ではお寺の名は慣習で音読みと決まっている。 井桁を組む構造の寺は見たことがない。 平泉の達谷窟は井桁に組む構造だ。  平泉は古い時代国境だった。 中尊寺は昔の国境にある。 人は金色堂の阿弥陀如来や地蔵仏に礼拝する。 金色堂の裏手には衣川が流れている。 衣川は続日本紀によれば蝦夷と大和朝廷の国境。 巣伏の戦が行われ紀古左美率いる数千の大和朝廷軍は 阿弖流爲( アテルイ)率いる数百の蝦夷に大敗し夥しい死者を出す。 中尊寺金色堂

          清水寺と中尊寺

          世界を見よう

          「私は人生の自由を手に入れたかった。世界中を見て回りたかったのである。他の旅行者がめったに目にすることなく、そこへ行って初めて見える、その場に立たなければわからない世界を見たかったのだ。」 このジムロジャースの言葉は響いた。冒険投資家ジムロジャースの世界バイク紀行を夢中になって読み、直ぐ第二弾の世界大発見を読んだ。そうか一歩踏み出すためには投資で稼ぐことが必要かもしれないと思い始めた。 この本をいつ読んだのか手元にある日経ビジネス文庫の発売日を見ると50歳前後に読んでいる

          Aquarius

          中学一年生だった時友人の影響で洋楽を聴くようになった。黒い詰襟の制服を着て小学生とは違う世界が始まった。友人が貸してくれたレコードを聞くようになった。 Procol Harum 青い影、Otis Redding  The Dock of the Bay、Diana Ross & The Supremes  Love Child 、The Temptations  My Girl と中一が聴くには大人っぽい曲だったと思う。でも魅了された。 最初に自分で買ったレコードが Th

          お花巡り 蓮の花

          三渓園は蓮の花が咲く7月に朝7時から開門して早朝観蓮会を開催している。蓮の花は早朝に花が開くので早朝に来て蓮の花を観賞したい。 三溪園は本牧にある、本牧は米軍に住宅地として接収され電線の無い街になっている。さくら開花時の並木道が綺麗なところだ。 資料館によると米軍は横浜に空襲をしたが占領政策を見越して横浜港一帯は空襲しなかった。関東大震災で倒壊しなかった建物や震災後に建てられた戦前のビルはそのまま残っている。 グランドホテルが震災で倒壊してニューグランドが建てられ、厚木

          お花巡り 蓮の花

          緑の三本筋

          デスバレーはその高温の記録が話題になる地点であり、陸地でありながら海水面より低いところがあるのが知られている。 アメリカの最高峰は植村直己が行方不明になったアラスカのデナリで六千メートル以上ある、メインランドの最高峰はシェラネバダ山脈にあるホィットニー山で四千メートル以上ありロッキー山脈より高い。 太平洋から吹く湿潤な風はシェラネバダ山脈を越えることが出来ず、デスバレーのような乾燥地帯をネバダ州ラスベガスまで広げている。住みたくとも住めない土地がそこにはある。 再雇用を

          お花巡り ミヤマキリシマ

          ミヤマキリシマを見に久住山に行った。 行ったというより取り敢えず行って見た。 ミヤマキリシマは久住山にある法華院温泉山荘に泊まって見て歩くのを知らなかった。羽田を出て朝一番熊本空港からバスで長者原に行けばなんとかなると思っていた。 どうやらそうでもないと分かってきたので 牧の戸峠から星生山を往復することにした。 降り頻る雨の中、帰るバスの時間もあり星生山へは行かず途中から引き返した。大雨の中バスでホテルを予約していた別府へ向かった。 翌日は雨のため朝一番のバスで久住山

          お花巡り ミヤマキリシマ

          立山アルペンルート

          2021年66才、もうすぐ67才になる頃 脳梗塞になった。 突然だった。 啓示みたいなものは何もなかった。 今振り返れば心筋梗塞で突然死していても 不思議はなかったと思う。 父に起きたことが息子の自分にも起きた。 幸いなことが重なって言語半身麻痺のような 後遺症はなかった。 退院して市民プールで泳ぎリハビリする中で 立山に行きたいと強く思うようになった。 父は肺がんで亡くなった。 80代後半だったのでガンの延命治療はせず 自宅で療養して月一度通院を介添えしていた。 父が亡く

          立山アルペンルート

          まぁまぁの人

          まぁまぁ、なんとか無事に生きてきた 父と義父を見送った。母と義母を見送るだけだ。90代半ばで認知症もなく介護が必要だけどいつまでも元気な母と義母に負けないように元気でいないといけない。 2021年9月に脳梗塞を発症した。幸いカテーテル手術が上手くいき後遺症はなかった。 危ないところだった、見送るのに見送られてはいけないのだ。 子供の頃はもっと裕福な家なら良かったのにとか、秀才の頭と私の頭を取り替えたいとか、そんなことばかり考えていた覚えがある。 初めての集団生活は小学