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Ref. MBTIへのいざない /「予測」の危険性について
前置き
MBTIが大流行しています。それに伴い、批判も多いですね。有名税でしょうが、その批判に対する根拠を示す参考文献として、本家「MBTIへのいざない」から、その使用上の注意の公式見解を抜粋して本記事にまとめました。こちらの記事は、私がこれから自身で引用する可能性が高そうな未来予測性に関してのまとめです。
MBTIは基本的に極めて謙虚な姿勢を取っています。それはユングの姿勢でもあります。つまり、ユングの著した「タイプ論」で定義された8つの心理機能タイプというのは、タイプ分類することがそもそもの目的ではなく、「その8つの心理機能を誰もが持っている、だから理解し合えるはずだ」というメッセージを残すことでした。従って、そもそもがビジネスで成功するという「俗物的」な使い方を目的としてはいないのです。もっとスピリチュアルな文脈なのです。
さて、多くの皆さんは「スピリチュアル」という言葉を聞いた瞬間に、嫌悪感を感じる人が多いかもしれません。それはある意味「お花畑」のように脳内変換されるのではないでしょうか。でも、本当にそうでしょうか?心理学という学問は、本来スピリチュアルであるべきではないのでしょうか?なぜ統計的「再現性」が取れることばかりを切り取りたがるのでしょうか?「心」を切ったり貼ったりして「便利なシステム」を作ることが目的になっていませんか?その目的は人を幸せにすることですか?それともビジネスですか?その「再現性」は百年後にも再現可能ですか?千年後は?本当に心理学は「科学」ですか?そもそも心理学は「科学」である必要がありますか?…本当に他人の、自分の「心」を見ようとしていますか?もし、本当にそうなのであれば、心理学は抽象性を許容しなければならないジレンマに陥るはずです。なぜなら、人の「心」を動かす言葉には必ずしもエビデンスや再現性なんてないからです。そのジレンマを抱える謙虚さがあるならば、心理学を「科学」だ、なんて単純化して貶める発言は出ない気がします。
従って、人の心にはスピリチュアルな領域があることを理解できない人の方がむしろ「お花畑」な世界で生きることを願っているのではないでしょうか。「スピリチュアル」という言葉に対する嫌悪感の正体は「予測」不可能である不安や恐怖、それは安寧を貪る心から来る、と。科学で世界を単純化して、心まで単純化して、未来が「予測」できるようにして、安全を求めている。歪さに気付かずに。
ユング、そしてMBTIに強い興味を惹かれ深く学ぶ人達の多くは、不安定な心を持っていると思います。それは脳が「抽象性」を許容できてしまうから、とも言える。つまり、世界の歪さを、恐怖を、リスクを、ありのままで受け入れてしまう知性を持っている、ということです。例えば、戦争や災害に巻き込まれたとしましょう。ついさっきまでアンチスピリチュアルだった理性的な人は、体裁も外聞もかなぐり捨てて神に祈り始めるかもしれません。「どうか私の子供を助けて下さい」と。つまりその存在をどこかで感じてはいるけれども、普段は無意識にスピリチュアルを「否定」することで、多くの人は平静を保っている。そしてそのツールが「科学」である、と。
心理学者たちが「抽象性」の価値をそのまま許容できない理由の一つは、それを直視するのが恐ろしいからではないでしょうか。あまりに曖昧過ぎて、分からな過ぎて、恐ろしい。だから少しでも「再現性」が取れた所に「科学」の名前を貼り付ける。
前置きはこれくらいにして、ユング/MBTIは、曖昧さを曖昧のままに、抽象的なものを抽象的なままで受け入れてあげよう、というのが基本の考えです。私は「科学です!科学でやっときました!」って言ってくる胡散臭いビジネス心理学ツールよりも、遥かにユング/MBTIのアプローチの方が好きですね。
これから以下は、ただひたすら「MBTIへのいざない」から、MBTIがツールとしての実用性や未来の「予測」に対して、どの様に公式見解を述べているかを抜粋しています。結論、ふわっとしたことしか言っていません。でも私はむしろ、そちらの方が信頼できます。ぜひご一読を。
(後書きもあるよ)
「MBTIへのいざない」から「予測」の危険性について
個々人の性格と心理学的タイプ
性格について考えるうえで、特徴のはっきりした観察可能なパターンをもとに仮説を立てることはできるが、行動を予測するために性格タイプを用いるということはあまり賢くない。なぜならば、行動には他にも影響を及ぼすものが無数にあるからである。ユングは、性格タイプを固定した変えられないものとしてではなく、心の習慣としてとらえており、ユングが用いた〜タイプという言葉は、本当の意味では〜タイプに特徴的な傾向の略といえる。
...(中略)…
当然、私たちには、自分たちの習慣が一番自分に合っていると感じる傾向があるが、だからといって、常にそうするとも限らないし、それによって行動や反応が規定されたり予測できたりするとは限らないことを、自分で知っている。ユングの提唱したタイプ論や心の習慣についても同様である。心の注意の方向性と心のプロセス (知覚と判断) を組み合わせたパターンが似ている人は、傾向としては似通う点があるが、それぞれ個別に独立した心理をもっているし、また人は、そのようなパターン以外の要因から行動することもある。これまでの人生経験、現在おかれている状況、そのときの発達段階、そして知能のような生まれもった傾向も同様に、その人のタイプに加えて、行動に影響する要因である。 たとえば、生まれつき「外向」で、他者と交流することでエネルギーを得やすい子どもが、厳しく批判的な家族に育てられた場合、思いつくまま発言し話しながら考えるというスタイルでは、家族と衝突しやすいということを学び、内にこもったり、言いたいことを言わないというスタイルで身を守ろうとする行動を身につけたとする。するとその子が成人になったとき不安やストレスを感じると、突然内にこもったり、突然人をつきはなす従来の対処法に逆戻りするかもしれない。また、更年期障害や、中年の危機などの状態にあるときは、その人らしくない行動を生じさせるかもしれない。しかし、そのときの行動や感情はその人にとって本物の行動であり感情なのだ。つまり、単に人のタイプにのみ基づいて、その人の行動や適性を予測したりすることはできるはずがないのである。タイプ概念の熱心なファンには申しわけないが、ここで声を大にして言わねばならない。タイプだけですべてを説明できるのではない! と。
また私たちに習慣があるということを否定するとしたら、それは食事時に必ず同じフォークの持ち方をしたり、同じ順序で服を着て、同じやり方で足や顔の毛を剃ったり、同じような表情で質問に反応したり、そして一定の刺激に同じように反応している事実を無視することになる。よく考えてみてほしい。習慣とは、自分たちの考え方や実際の行動に浸透しているのであるが、だからといって他の反応様式を排除したり除外したりするものではない。いわゆる健康な人は、状況が必要とすれば、古い習慣を打ち破り、その状況に直面し順応していけるのである。つまり、典型的であるとか習慣的なという言葉を人に対して使うとき、融通がきかないとか、ワンパターンだとか、変えられないということを意味するのではなく、その人が世界をどのように見がちで、どのように関わっているのかについてある程度の全体が得られるというだけなのである。
p.4
ここで、ユングとマイヤーズが提唱したことできわめて重要なことをひとつ明記しておく。各指標に両極があるのは、対極にあるものの違いを知ることは価値があり、建設的で役立つという前提があるからである。人のものの見方や判断の仕方のパターンが異なるということ自体に良し悪しはなく、すべてのタイプは同等に価値があるが、だからといってすべてのタイプの示す表現方法がどの状況においても同等に評価されるわけではない。
...(中略)…
もし、タイプ理論が人を型にはめるものだったり、人に序列をつけるためだったり、はたまたレッテルを貼り付けたり、習慣を予測するために使われたとしたら、真に人の多様性を尊重することは不可能となってしまうので、そのへんは注意してもらいたい。固定観念を生み出すだけのものに、いったいどんな価値が認められるのだろうか。
タイプは能力や適性ではない
たとえば内向直観を指向する人を「理論家」とか、外向感情を指向する人を「温情家」などと理解するのではなく、タイプの代表的な記述は、一般的な反応の示し方を映しているにすぎないことを念頭において理解するようにしよう。タイプは与えられた役割における個人の能力を予測するものでも、成功できるかできないかを示すものでもない。指向はただその人が好んで使いやすいものの考え方だけで、指向しているからといってその機能に特有の能力があることを示すものではないからだ。決して、この記述から人をすばやく簡略化してしまうような愚かなことは絶対にしないでもらいたい。そんなことをしたら、その個人がこれから自分の人生や仕事において貢献しうる可能性を見落としてしまうだろう。心理学的タイプ論とは、心についての「複雑かつややこしい考え方」をするものであり、自分や他者を理解するためのヒントをくれるだけにすぎない、ということをしっかりと念頭においてもらいたい。
そこで注意が必要なことは、性格タイプが、誤った理解や、思考回路が止まってしまったり、建設的なことができないことの言い訳となってはいけない。性格タイプは、自己理解や他者理解のきっかけや傾向を示すものであって、人の性格を予測したり管理するものではない。そしてさらに重要なことは、私たちが望む情動的に健全なやりとりをするために欠かせない行動を、自ら発達させるために、人の多様性について洞察してみたことを生かすことである。
仕事上で効率的になること
ここで注意願いたいのは、しばしば、タイプ (たとえば、外向、感覚と思考) と、様々なスキルや能力との間に直接的な関連があるといったような誤解があるが、筆者は本書を通じその誤解の是正を試みたい。本書をまだ読んでいない人や、心理学的タイプ理論についての正しい教育や訓練を受けていない人は、感覚指向の人は、詳細に関する仕事、たとえば経理、看護、メカニカルエンジニアリングが「得意」であると思い込んでいることがよくある。感覚を指向する人が、こうした分野に関心を引かれやすく、こうした領域でスキルを身につけるのに十分な強い関心を抱くことが多いというのは事実である。しかし、このことは、自分の指向ゆえに、ある種のスキルを生来持ち合わせているとか、指向ゆえにこうであるべきというのとは大きく異なる。実際、タイプ指向と潜在能力を評定したり実際の能力との関係を裏付けるデータはない。
キャリア選択においては、とても複雑なさまざまな要因が関係するため、キャリアを決めたり、なにがしかの能力を知るためなどに、タイプを唯一の情報源とすることは奨励しない。興味関心の方向性や、魅かれることとタイプは関係するが、すべてのキャリアにおいて、すべてのタイプの人がいることを忘れていただきたくない。ある仕事について、異なるタイプの人たちにインタビュ一したとき、その仕事に対する初期的なモチベーションや思い入れ、実際にタイプに関連していたことは判明したが、その仕事において成功しているかどうかは全く関係ないことも分かった。ここでタイプと仕事および仕事に関連するモチベーションの傾向について記した表18 (156頁) を参照してもらいたい。
…(中略)…
こうした傾向から差し引いて考えなければならない重要な点がいくつかある。タイプが特定のキャリアへ「引っ張る」ことは見えてくる。ただしこれは傾向である。傾向は、予測したものでもなければ、能力の評価をしたものでもないので、キャリアの適性を考える際には、タイプはあくまでもヒント程度に捉えられるべきである。
仕事に予測可能なことや経済的安定性があったのは遠い昔となり、今や、多くの人が「わたし株式会社」として自分が自分のブランドマネージャーとなって、仕事に多くの能力をもたらさなければならなくなっているのではないだろうか。われわれは、この自分のブランドを中心においてさまざまな課題と対処しなければならず、それは、断続的に起こる変化やあいまいなことなどのストレッサーと、常に襲いかかってくるプレッシャーに対処することを意味する。こうしたストレスにどう対処するかが、職場だけでなく家庭におけるパフォーマンスや満足感に影響を与える。
人の道のり
...(中略)…しかし徐々に2つの問題が浮かび上がってきたのである。
ひとつは、ユングとマイヤーズが編み出したタイプ論の考えと、そのタイプ論に出会った多くの人が、一部の Myers-Briggs Type Indicator の不適切な利用によって、誤用を被っているということだった。たとえば、 MBTIの結果を人と比べて良し悪しでとらえていたり、すべての行動の原因をタイプに求めるなどである。このようなことは、タイプ論の立場とは最も相容れない考えなのに、である。そもそもタイプ論では、どのタイプが他のタイプより優れているかということは一切問わないし、また指向とタイプが行動を生み出す直接の原因としてとらえないよう注意を促している。タイプをいいわけに使ったり (「私に早くやってとは言わないでね。私はそういうタイプじゃないんだから」) や、タイプで業績の低迷を説明したり(「あの部署にあのタイプを配属したのは私たちの失敗だったね」)や、他の人を責めるときに使ったり(「もし君が、空想したりせずに、ちゃんと詳細に細心の注意を向けていたら、こんな事態を招かなかったんだぞ」)、他者の動機を決めつけたり(「君たちのタイプは、所詮収支にしか関心がないんだ」)、タイプを個人の能力や予測に使ったり(「私はなになにタイプの秘書しか採用しない」)、といったタイプでの人の採用不採用を決めることなどは、すべてタイプの「濫用」であり、誤用である。
...(中略)…タイプ論も MBTIも人の行動を予測するためにつくられたのではない。なによりも、「心理学的タイプ論は、人々をタイプに分類することを目的にしているわけではなく、そうすることは、むしろ意味のないことである」とユングは明言していることを忘れてはならない。そして、私たちは、こうした複雑なことに前向きにとりかかり、研究と熟慮を繰り返し、この本で紹介したように、適切な多様なタイプの活用方法を見出せるようになっていったのである。そして、この本が、人々の違いや多様性を理解するだけでなく、それらを尊重しうるよう、読者が自分や他者について、新しい切り口から豊かな洞察を得られるきっかけとなることを願っている。
人生が教科書であり、タイプは参考書だ
人生自体がそれぞれの人にとっての教科書である。どのように生き、そこから何を見出すか、そして何を壊し、自分自身の物語を最後まで演じるなかで、真のタイプの価値が生きてくる。ほかの参考書と同様、タイプという考えは、人生において、何ができて、何を選び、何を無視し、何をまだ裏舞台にとどめておくかなどについて、方向性を与えてくれるものである。戦争が勃発してしまったり、飢餓状態であったり、経済が修羅場だったり、世界の政治が破滅状態に瀕していたりしたら、こうした個人的な課題に真剣に向き合うことはなかなかできないが、そういう状況下にいないのであれば、自分が他者と建設的に関わるスキルを高めることで、多くの人が向上することに貢献できるのである。
...(中略)…
私たちはタイプ論におけるセミナーを通じて何千人もの参加者と接したが、彼らのほとんどは、タイプ論にふれ、はじめて、自分は変ではなく、ましてそれが自分にとっては健康な心の働きなのだということに気づき、人によっては、「もうすこし早くにこのことを知っていれば、いままでももっと他のやり方があったのに」と、悔やむ人もいた。これは、彼らが困難な状況に立たされたとき、もっとより有効で人間的なやり方で対処できたかもしれないということの後悔であろう。そしてさらにタイプ論のことを深く学べば、もっとこれから可能性が広がるところなのだが、残念なことに、こうした人たちでも、タイプにふれた最初のところで満足し、それ以上学ばない人が多いことも事実である。指向やたくさんの指向の相互作用について学んだが、個人の潜在的な力を引き出したり生涯発達に役立てるために用いるまでには至らないのである。個人でタイプの基本的な考えについて探求していく人はめずらしく、その考えを自分に応用して、成長させるために使う人は、もっと少数なのが現状である。
実施者およびフィードバックをする者の知識
性格をアセスメントする場合、個人の本質的な側面や心の習慣を理解するために考案された検査が、その個人の能力や才能、表現力などを予測できるというような見解の餌食に決してなってはならない。残念なことに、MBTI を購入する資格をもつ人の多くが、心理学的タイプ論の理論やモデル、また歴史について学んできていないし、フィードバックの訓練を受けていないことがある (訳者注:米国の場合)。彼らの多くは、MBTIの結果や他のタイプ理論をもとにしている検査結果を、あたかも性格の特性を測定しているかのように(行動を予測できるかのように)、はたまた星占いと同じように扱っている。...(中略)…健全なるタイプ発達とは、適応することだったり、柔軟性をもたらすものだったり、心を自由自在に適切に用いるというものであることをわかっていない人は、「内向思考を指向する人は、常に理論的なモデルを見ようとする」...(中略)…などのようなことをいって間違いを犯しているのである。タイプ論が真に示そうとしていることとは人間のさまざまな潜在的な行動に見られるパターンである。個人の行動についての予測のほうは、すべて「神のみぞ知る」なのである。
タイプについての本や説明で、内容が予測の方向に転じてきたら、無視するほうがよいだろう。それは、あるタイプに属するすべての人が、常にかほとんどの場合、ある刺激に同じ方法で反応することを証明する経験的なデータがどこにもないからである。むしろ、どのタイプの人も、状況に応じて、機能を使い分けるため、その適応の結果、それぞれのタイプに典型的な行動とは異なる表れ方をする、と考えたほうが人間理解をするうえではためになるだろう。
適切な文脈
心理学的タイプ論やMBTIのようなツールは、人の情報の処理の仕方や表現の仕方に見られる違いを理解するうえで、非常に肯定的かつ建設的なモデルを提供してくれる。すべてのタイプの心的機能が誰にでも備わっており、誰にでも潜在的な力が備わっているという前提がこれらにある以上、タイプだけに基づいて、職務配置、チーム分け、キャリア決定、または心理療法的処置がとられることは間違いである。なぜなら自分や他者のタイプや、特定の状況においてその人がしやすい反応や陥りやすいことを知ることは、それなりに価値があるが、これらの知識は診断的なことや管理場面に用いるのではなく、個人の発達における指針のために利用されるべきものである。このモデルを個人の豊かな成長や発達のために役立てることと、偏見を正当化するために使うこととは、紙一重の問題である。
後書き
ご覧の通り、MBTIの公式見解はユングの基本姿勢を踏襲しており、タイプを用いて未来を「予測」すること等、不可能であるという立場を取っています。では何のためにMBTIは存在するのか?どこかの誰かが「予測できないんだったら意味なんてないですよね?」と言っていました。はてさて。心理学というのは人の心、そして行動を「予測」するために作られたんでしたっけ?
私は心理学の専門家ではないので詳しい歴史まで知りませんが、学者の学ぶべき基本姿勢というのは難解な物事をいかにシンプルに捉えるか、それこそ「小学生でも理解できる」ように複雑な物事をシンプルに表現する。そこに真価が問われる気がします。もし私が小学生に立ち返ったならば「心が弱っている人を治すために心理学ってあるんじゃないんですか?」と質問するでしょう。間違ってますかね。。。?
私達の心というのは、正体が分からないもの、理解ができないものに対して、その実体よりも大きな「影」を生み出す性質があります。まさにプラトンの洞窟の比喩のように。私達は日々、自分の中に住まう正体不明の、八百万の心の主と対峙しなければならない。「あなたはHSPという性質を持っているかもしれません」という一言は、それまで心の中で悪さをする奴だと思っていた心の主に、初めて真正面から直視する勇気を与えてくれるかもしれない。それまで自分を振り回していた影の「実体」を、その小ささを、初めて認識できるかもしれない。これが自分を認めてあげるということ、アイデンティティーを確立していくということではないでしょうか。ありのままの自分を認めてあげることで、自分の心に振り回されずに済むかもしれない。新しく挑戦する前向きな気持ちが生まれるかもしれない。つまり「人を勇気付けること」が心理学の役目ではないのでしょうか?
自分の心の「影」に光を当て、自我に統合していくこと、これがユングの個性化です。無意識の領域には、これまで自分が「否定」してきた魑魅魍魎がウヨウヨしています。それと向き合い、無意識を意識へと統合していこうというユングの主張は、極めて「スピリチュアル」ではあるけれども「お花畑」だとは思いません。むしろ「影と対峙する強さを持ちなさい」という厳しいメッセージです。スピリチュアルを「否定」する人達は、今の自分の「お花畑」つまり自我を守るために、自我から追放した魑魅魍魎たちを「スピリチュアル」へと投影しているのです。だから「スピリチュアル」と聞いた瞬間に嫌悪感を示す。
ユングそしてMBTIの目的は、こういった内面の意識化が目的であり、そこから「自分の特性をどうやったら生かせるだろうか」という新たな希望を与えることだと思います。そういった意味で、ビジネスや未来の「予測」にはまるで役に立たなかったとしても、本来の意味での「心理学の役割って何だろう?」という小学生の疑問に、徹底的に寄り添うアプローチであると感じます。「人を勇気付ける」、このことを実現するために、本当に心理学は「科学」である必要があるのか?
君たちの言う「科学」って、いったいなんだ…?小学生に説明してみろよ。
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