黒澤清『復讐 運命の訪問者』 - 哀川翔は撃たれない
1997 - 1998年の、キレた黒澤清にハマった人の記録シリーズ②。
前回は『蛇の道』。
「あらすじ」「紹介(ネタバレなし)」「感想(ネタバレあり)」の3セクションで綴っていきます。
あらすじ
あまりにも短い公式あらすじだが実際これで十分である。復讐に足る動機を持ってしまった人間が、その殺意でもって映画をひとつ駆動する。それだけの話だ。
紹介(ネタバレなし)
黒澤清 × 高橋洋の初タッグ作。「悪意の軽さ、善意の重さ。」とは『蛇の道』につけられたキャッチコピーだが、どう考えても本作に相応しいものである。かなり変則的な復讐劇だった『蛇の道』と異なり、こちらは一応「フクシュウもの」の王道を征くストーリーが進行する。ちょっとした特番ドラマ、一般的なサスペンスやハードボイルドとして見れなくもない。
しかし王道をいくなかでもそこらに個性が光っている。
まず全編を流れる映像の空気感が明らかに健康に悪そうで最高(?)。オープニングの入りからもう、「あぁこの映画を観て楽しい気持ちになることはないな」と確信させる。家の映し方、出てくる廃屋だけでもう理解らされてしまう。
次に脇を固める敵役。『悪魔のいけにえ』を連想させる一家、特に六平直政さん(以下、六平)の怪演と存在感は異常。この怪演にタメをはる哀川翔もすごくて、後半の表情は何かの境地に達しており、極まった感じがする。『蛇の道』の翔に惹かれたらコチラも是非とも。自分がこのシリーズを愛するのは役者の凄みがあるからだ。
そして銃撃戦!これは見てほしい。キレッキレの構図で進む、弛緩した身体と銃撃による死の交錯。自分が観てきたハリウッド娯楽作では決して見たことがない、ヌタリとした足取りで忍び寄る即死。
話としてどう転ぶか分かり切っている復讐劇にも、こんなに個性が出るんだなぁ……と映画ってすごいなぁ(小並)と思える一作。マイナーな一作だがU-NEXTで見ることが可能だ。
感想(ネタバレあり)
王道に寄っているがゆえに意味不明な捻れも少ないが、だからこそ観やすい。脚本が"清"でないのでちゃんと話が進んでくれる。なんせ、ちゃんと主人公の倫理観が壊れていく理由(シーン)が与えられているのだ。他3作を見れば分かるがそんなのは本当に今作だけである。まだお互い遠慮しているのか突飛さも少なく、素っ頓狂な会話劇を期待すると物足りなさがあったりする。
しかし異常シーンは迸っている。
血まみれの顔で平然と無表情で歩いていく(コチラに向かってくる)六平。工場でのひと悶着中、明らかにヤクザよりキれている六平。兄弟とちょっとビックリするくらいエモーショナルに抱き合う六平。廃工場奥、復讐に走って男を追い詰める安城(哀川翔)の裏からヌズッ……と「殺ったのは俺だよ」と登場する六平。だいたいが六平。すごいよこのひと。ウシジマくんに出てきそうで絶妙に出てこなさそうな、異常と一般人感のバランス。明らかにキれた人間だが、「兄貴は手を汚さない。汚れ仕事はいつも俺だ」「アンタは撃てんのかよ」など、家族における自分の役回りへの感情図を何となく想像させるのも良い。
■絶対当たらない銃撃戦
そして"清"も迸っている。
まず長回しが異常に多いんだけど、やっぱり書きたいのは"復讐"という名の銃撃戦。多くが言及している「絶対当たらない銃撃戦」である。ここは本当にカッコイイ。向かい合って撃ち合うなかで粛々と銃弾を込めなおす哀川翔は確かにVシネマの帝王である。こんな人間に銃が当たる訳ないだろ。このシーンだけ繰り返し観ると作りの粗も目立ってくるんだけれど(発煙はいかにも時間の苦し紛れだ)、これまでの映像テンポが一気に加速する編集あいまってスパーンと魅せられてしまう。
その後の廃工場での奥・手前で横スライドしていく銃撃戦もすごい。ハリウッド的なスピード感は一切なく、動作だけみれば完全に緩んでいるのに、「撃たれたら死ぬ」それだけで重力が成り立っている。にしても毎回、こんな廃屋どこから見つけてくるんだよ。一方で予算の限界が一気に露呈する重火器シーンは失笑ものである。この巧拙の乱高下がよけい頭を混乱させる。
■「もう死んでるんだな」
本作のワンシーンについて、『黒澤清、21世紀の映画を語る』で面白い話があるので、すこし長いが引こう。
話はこのあと、黒澤清が哀川翔に「このセリフは変ではないか」と確認すると、「いや、全然かまいませんよ。これは復讐の映画だから、こういう台詞でまったく変じゃないです」と異にも介さなかった、と続く。実際に観た側としても全く違和感はなかった。
ここからは、脚本と映画の関係性のおもしろさ、高橋洋と哀川翔がその核心を掴んでいること、そして清はこちらが思ってる以上にちゃんと考えて(失礼)物語を捉えようとしていることが伝わってくる。
そしてこの飛躍──展開のためにセリフを純化しても良いことに味をしめた(?)のが、これから触れていく"脚本:黒澤清作"で露になっていくのだった。この本は面白いので鑑賞と合わせてぜひ勧めたい。Kindle Unlimitedで無料で読める。
にしてもやはり最終盤の哀川翔である。すごい。冷静に考えなくても、作劇上死ぬべき時(最終盤)まで銃撃が当たらないのは不自然だし、なんで撃たれて倒れたのに平然と殺しに歩いてこれるのか謎だ。ふつうなら形見が守ってくれた……とか理由付けしそうなもんだけど、そういうのも一切何もない。ゆえに「なぜ生きているの?」「生きてるから」という物理・事実だけが映っている。
その荒唐無稽さに謎の説得力が感じられるから良い映画だと思う。それは哀川翔の胆力か、清の映画美学か、脚本か、撮影のおかげか……もろもろ。こういう謎の説得力・展開を自分はなんとなく「重力」と言っている。「この映画では"そう"なる」、それに納得させられてしまう力。
ラストの表情の数々なんだよあれ。極まりすぎだろ。『蛇の道』と本作で自分のなかで哀川翔がTier 1に入ってしまった。ハードボイルド……カッケェ……。
と思ったらエンディングで突如「哀川翔:作詞曲ボーカル」による世界観を完全に無視した4畳半フォークが襲い掛かってくる。
もう滅茶苦茶や。このへんのアンバランスさが本4作の欠点であり、無敵な点でもある。冗談じゃねぇ。何もいえねぇよ。